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2010年12月号 【79】

「きらら」で毎月連載していただいていた東川篤哉さんの『謎解きはディナーのあとで』の単行本の 単行本が、このところ爆発的に版を重ねており、編集部としては大いに盛り上がっているのだが、著者の東川さんからも、「連載しているときは『きらら』の読 者というものをいつも意識して書いていた」というありがたい言葉をいただき、われわれもますます心を強くして日々の仕事に取り組んでいる。

 ご存知のように『謎解きはディナーのあとで』は20代の女性刑事が主人公。彼女は実は大金持ちの令嬢なのだが身分を隠して警察署に勤めて おり、彼女の執事である謎の男・影山の舌鋒鋭い叱咤激励を受けながら、次々に難事件を解決していく。「きらら」としても初の本格ミステリの連載ということ で新たなチャレンジだったのだが、東川さんのほうでも若い女性がメイン読者である雑誌での連載は初めてで、その舞台でどのように自分の作品を展開していこ うかということは常に考えていたという。初代の担当編集者が主人公の年齢に近かったということもあり、物語の設定に関してのディスカッションはディテール に至るまで繰り返され、かなり密度の濃いものとなっていった。それだけに連載をスタートさせた初代担当者の功績も大きい。そしてその後も毎回の連載のなか で、「きらら」と東川篤哉さんという作家の出会いは見事な化学反応を起こして、『謎解きはディナーのあとで』という素晴らしいエンタテインメント作品に結 実するのだ。

 実は、編集者は作品に対する場合、どのようにしたらこの作品が読者の心に届くかということにいつも腐心している。「実は」と前置きを置かずともそ れはそれであたりまえのことなのだが、得てして自らの頑迷な価値観の中でそれを見失ってしまいがちである。幸いにして今回は「きらら」という雑誌に連載し ていくなかで、読者からの反応なども含めて、そのことを少しずつ確認しながら単行本化を進めることができた。そういう意味では雑誌は編集者にとっては世の 中に向かって開かれた実験室であると言っていいのかもしれない。

 さて、次号からまた東川篤哉さんの『謎解きはディナーのあとで』の新連載が始まります。東川さんはとても丁寧な仕事をする方なので、いまから原稿 をいただくのが楽しみなのですが、今度は「きらら」という小説の実験室からどんな新しい化学反応が生まれるのか、みなさまもどうか楽しみにしていてください。

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2010年11月号 【78】

 このところかなり忙しかったので、まとまった読書がまったくできないでいた。そんなときにスマートフォンでの読書を試してみた。これを「読書」と呼 べるかどうか、僕の中ではまだしっくりきてはいないが、とにかくいくつかの小説をこの電子書籍端末で読むことができた。 たとえば待ち人をしている街頭 で、たとえば仕事が一段落したデスクの上で、もちろん移動する乗り物の中での退屈はずいぶんこの読書する道具で緩和することができた。さらにひどいとき は、レストランで次の皿が来る合間に、メールを確認するふりをして、ちょうど佳境に入ってきていた綿矢りささんの『勝手にふるえてろ』をこっそり読んでい た。

 さてスマートフォンでの読書を続けているうち、自宅のソファでくつろぎながらこの電子書籍端末で読書をしている自分を発見して愕然とし た。もちろん外で途中まで読んでいた小説の続きを楽しんでいたのだが、僕にとっては急場しのぎの読書の道具であったはずのスマートフォンが、確実に自分の 読書する時間のメーンに登場していることに、紙の本をつくっている編集者としては恐怖さえ感じたのだった。

 とはいえ現時点ではスマートフォンで読める作品は限られているので、多忙でなければまだまだ僕の読書の時間の大半は紙の本で占められてはいるのだが、それでも読んでいて、軽めのミステリーなど、これはスマートフォンで読めないかなあと思ったりする作品もある。

 そして「紙の本派」の僕がそう思ったりするのは、スマートフォンの字組みが妙に読書するのに快く感じるからなのである。たとえば前出の『勝手にふ るえてろ』は、僕が使用している携帯の画面では24字×10行の縦書きで表示されるが、これは普通の文庫本の3分の2のサイズ。これをタッチパネルでする する繰って読んでいくとかなり快調に読み進めることができる。この「文庫本3分の2サイズ」の読書が、ことのほか自分の思考の速度に合っていて、紙の本で は味わったことのない新しい読書体験をもたらしてくれるのだ。しかも電子書籍の専用端末のようにスマートフォンは重くはなく、片手でも操作できる。いま僕 は「紙の本派」、ときどき「スマートフォン派」になりつつある。

 もちろん冒頭にも書いたようにこのスマートフォンでの読書が、果たして「読書」と呼べるものなのか僕の中でもまだ結論は出ていないが、新しい小説体験であることは間違いない。紙の本では味わえない何かがそこにはある。

( I )

2010年10月号 【77】

 最近、嬉しいのだがちょっと考えさせられる出来事があった。これまで何人かの優秀な書き手を生み出してきた実績ある小説の賞の、大賞と優秀賞を受賞 された方が、どちらも自分の関わっている賞のかつての受賞者であったということだ。お二人が受賞していた賞はそれぞれ別の賞なのだが、大賞の方は、4年ほ ど前創設された地方自治体が主催する賞の第1回受賞者であったし、優秀賞の方は、自分も最終選考を受け持っている小説の賞を3年前に受賞している方だった のである。大賞の方は同じお名前で書いていらっしゃったのですぐにわかったし、優秀賞の方も少し筆名を変えられてはいたが、作品内容と略歴で過去に自分た ちが選んだ受賞者の方だと程なくして了解できた。

 自分たちが関わった賞の受賞者の方が、再度他の賞を受賞するということは、その時の選ぶ眼に間違いがなかったということの証で、前述した ように嬉しいことには違いないのだが、その方たちが、おそらく小説を書き続けるために、また他の賞に応募しなくてはいけない状況にあったということは、編 集者としては少し考えなければいけない問題を孕んでいるようにも思える。

 さいわいなことに、規模的に見れば自分が関わっていたふたつの賞より今回の賞のほうが大きく、知名度の点でも認知度の点でも優るので、受賞された お二人の方には素晴らしい好機が訪れたことになるとは思うのだが、最初の受賞の時に小説を書き続ける環境を整えてあげることができなかった自分たちに、情 けない思いをしていることも事実である。

 さて、この国に小説の賞がどのくらいあるのか正確には把握していないが、とにかくかなり多くの賞が存在するのではないかという認識はある。もちろ ん今回の賞のように公募の賞となると少し少なくなるとは思うが、それでも毎回それらの賞から新しい書き手が登場してくるのである。その中にあって受賞後も 小説を書き続けていくということは生易しいことではない。受賞者は次の機会を求めて、またさらなるステップアップを狙って、新たな賞に応募する。それにつ いては自分たち編集者にも責任はあると思うが、ともかくこの小説の賞の数の多さにも起因するようにも考えられる。

「きらら文学賞」第1回受賞者である黒野伸一さんが他の賞に応募することなく、第2作目として発表した『万寿子さんの庭』がロングセラーとなっていることは手放しで嬉しい。

( I )

2010年9月号 【76】

 仕事上の必要からiPadを触るようになっていくつかの新刊の小説を読んでみたが、これがことのほか新鮮な読書体験をもたらしてくれた。ひとつは有 名な 音楽家のオリジナル楽曲がつけられた長編作品なのだが、目次に至る導入部にさっそくその音楽が仕掛けられており、これから展開される物語の、音によるプロ ローグとなっている。もちろん電子書籍とはいえ、メインの体験は読み手が活字を追う行為にあるのだが、各章にちりばめられた素晴らしいヴィジュアルと相 まって、その音楽は随所で新しい読書体験を味わわせてくれた。

 さて、これが、先月号の当欄でも言及した小説を超えた新しい表現のジャンルであるかは措くとしても、きわめて面白い試みであることは確か であ る。しかもぼくはこの電子書籍の文字を追うことで、確かに豊かな読書体験もした。この文字で表現している内容を、音声で伝えるようになったら、それはもう 「読書」とはいえないかもしれないが、能動的に文字を追いながら自分の頭の中にひとつの世界をかたちづくるのは、「電子」の中であっても、やはり立派な読 書体験であると考えている。

 先日、ある書評家氏と話をしていて小説はどこに存在しているのかという話になった。それは、書き手によって書かれればその時点で小説なの か、 はたまた読み手によって読まれて初めて小説たりうるのかという論争から発展したものだったのだが、話の結論として、小説は読み手の頭の中にしか存在しない ということで落着した。ふつう、われわれは文字で書かれたものを、便宜上「小説」などと呼んでいるが、それは読み手によって読まれなければ単なる文字の連 なりに過ぎないのだ。

 電子書籍になると小説は小説ではなくなるという言説を最近よく聞くが、どうもその言い方は怪しいのではないかと思っている。先述した iPad で読んだ作品は特別として、小説は電子書籍の中ではほとんど裸の状態でテキストとして置かれている。紙の本のような立派な装丁もないし、本としての手触り や質感もない。そのテキストのみの小説こそ実は真の小説の姿なのではないかと考えている。

 冒頭で述べたこととは相反するが、この裸の状態で置かれている小説(主に「青空文庫」など)を読むことも電子書籍がもたらした新しい体験 であ る。そういう意味で言えば、読者の頭の中にしか存在しえない小説は、電子書籍の登場でよりいろいろな入り口を持つということになるのではないだろうか。

 

( I )

2010年8月号 【75】

 アメリカ西海岸に住む知人とTwitterを通してやりとりしているとき、スコット・フィッツジェラルドの短編小説の話になった。ぼくが「The Lees of Happiness」という作品が好きだと呟くと、海の向こうにいる知人は〈未読なのでさっそく手に入れてみます〉と返信してきた。2時間後、現地時間は 真夜中であるにもかかわらず、〈Kindleで入手。静かな時間が流れる素敵な小説ですね〉とツイートしてきた。フィッツジェラルドの「The Lees of Happiness」という短編はあまり有名な作品ではないが、それをすぐに手に入れて読むことのできる電子書籍の機動性に、ぼくはそのとき正直舌を巻い た。さらに知人は、〈アメリカの書店は座り読みも自由なのでこれまではよく出かけていましたが、いまは読みたいときに直ぐに読める電子書籍に手を出してし まいます〉とも書き送ってきた。このように、読書家であり書店好きでもあった知人でさえ、電子書籍の魅力には抗しがたいものを感じているらしいのだ。

 電子書籍元年といわれている日本、まだ自由に新刊を手に入れることのできる本格的プラットホームが出現していないためか、表面上は穏やか に推移しているように見えるが、この知人のツイートにもあるように、状況さえ整えば電子書籍で小説を読む時代はすぐそこまで来ているような感じがする。ち なみに西海岸の知人は、〈KindleよりもiPadのほうが読みやすい。ちょっと重いのが難点ですが、画面も明るく操作も簡単。電子書籍の数は Kindleのほうが多いので、Kindle でダウンロードしたものをiPadで読んでいます〉とのこと。この発言からもわかるように、Kindleはあくまで本を買う道具であり、読む道具としては iPadがその主役の座を占めていきそうな気配である。

 ぼくもiPadを少し触るようになったが、この中で小説を展開するとなると、実はいろいろなことができる。ある文章のところまで来ると音声を出し たり映像を流したりなど、純粋に言葉だけではなく、音や映像の力も導入した新しい表現ジャンルがそこに生まれてきそうな感じがするのだ。そのときそれを 「小説」と呼ぶのかは別にしても、とにかく言葉を核とした新しい表現がどんどん出現してくるように思える。そのことを少し楽しく思っている自分がいること も事実だ。とはいえ、かのスコット・フィッツジェラルドが、音声や映像のついた自分の作品をどう思うかは、ぼくにもまったくわからない。

( I )

2010年7月号 【74】

 このところ電子書籍のことをずっと考えている。紙の本から電子書籍へ、この流れは正直言って止められないと思う。読者の利便性、流通コスト、環境問 題な どいろいろな観点から考えてみても、電子書籍の優位はゆるがない。自分自身も電子書籍で手軽に古今東西の名作小説が読めたら素晴らしいと思っているし、い ま家にあふれている紙の本がDVDのパッケージくらいのタブレットにおさまってしまうというのは痛快でもある。ただ、もうこれは伝統職人みたいなものにな るしかないのかもしれないが、自分としては今後しばらくは紙の本にこだわってみたいという思いがある。

 電子書籍の時代に編集者あるいは出版社はどう関わっていくのかという問題は、いま同業者が集まると必ず話題にされるものだが、皆さんわり とこれ を楽観的にとらえている。しかし自分としてはその役割についてはいままでのようなかたちで推移していくことはないだろうと見ている。編集者や出版社が恐れ るのは、自分たちをスキップして著作物が世の中に出ていくことだ。WEB流通の基本理念であるロングテールという考えからいえば、これは必定の事態になる と思う。そのときにわれわれはどう関わることができるのか、人によればそれはコンテンツの共同開発者になればよいという意見もある。事実、これからの出版 社の仕事は著作者との良好な関係を維持していきながらのコンテンツ開発だと言い切る人間もいる。しかしこれはいかにも編集者特有の尊大な言い方に過ぎるの ではないかと思っている。

 電子書籍の時代における出版社の役割はまずはコンテンツの販促プロモーションではないかと考えている。もちろんコンテンツ開発もありうるとは思うが、これはやがて出版社からは分化して、外国でいうところのエージェントのようなものになっていくような気がする。

 つまり何が言いたいのかといえば、コンテンツの開発というのはきわめてパーソナルな仕事だということである。もしこれを組織立ってやると した ら、そのときはとても手に負えないものが立ち上がってくるような気がする。電子書籍の時代というのは個の精神が個の精神と直接出会う場所が与えられる時代 というふうにとらえている。そしてその場所に立ち会えるのもやはり「個」ではないかと思うのである。そうなればもはや自分が紙の本にこだわる理由もなく なっているかもしれない。

( I )

2010年6月号 【73】

 早いもので「きらら」もこの号から7年目に入る。創刊号からずっとこの欄を書き続けてきているので、今回で73回目。あらためて数をかぞえてみる と、われながらよくぞここまで書いてきたなとは思うのだが、実はそれほど回を重ねてきたという実感はまるでない。なぜかと言えばこの欄ではいつも毎回毎回 同じことを書いてきたような気がするからだ。

 ホームページの「WEBきらら」ではこの欄がまとめて読めるようになっていて、これまでの72回分を通読してみると、自分の考えてきたことがおよそ変 わっていないことに驚く。まあ進歩がないといえば進歩がないことになるが、小説とは何か、自分にとって小説とはどういうものなのか、そのことをずっとこの 欄を借りて書き続けてきたつもりだ。

 いまさら言うまでもないが、小説とは言葉でつくられている。いまはおもに印刷されてそれは届けられているが、かつては語りつがれ人々に伝えられていた。 それを「小説」と呼ぶかについてはいろいろな考えがあるとは思うが、小説の原型であることには間違いない。やがて15世紀にドイツのグーテンベルグにより 活版印刷技術が考案され、小説は「書かれた本」となって多くの人の手に渡るようになった。つまりここで「話し言葉」から「書き言葉」への転換が行われたこ とになる。そしてそれまで個人から個人へと伝えられていたものが、個人から不特定多数の「読者」へ供されるものになった。職業としての小説家が成り立って きたのもこの印刷技術の発達によるものが大きい。

 さて、この欄で6年間書き続けてきた、小説とは何かという命題である。この答えは簡単に言ってしまえば、「楽しみ」ということに尽きる。

 いつも読者の側から小説というものにアプローチしてきたが、読む楽しみがなければ小説は存在しないと考えている。そしてその読む楽しみというのは、「書 き言葉」を楽しむということと同じだと考えている。もちろん「物語」を楽しむということも小説ではできる。しかしこれは映像や舞台でも感受できるものであ り、小説が持つ固有の楽しみは、あくまで「書き言葉」を楽しむということであると考えている。

 もちろん来るべき電子書籍の時代でもこの楽しみは変わらないと思っているが、「書き言葉」自体にも変化が起こるような気がしている。そのときにも、いつまでも「書かれた本」を手放すことができない自分の姿が見える。

( I )

2010年5月号 【72】

 いまから10年ほど前のことだ。アメリカ在住で、向こうで911の同時多発テロに遭遇したジャーナリストの友人が、ひさびさに里帰りして東京で会っ たとき、彼がバッグから名刺入れを少し大きくしたような白い小箱を取り出した。何に使うのかまったくわからなかった僕に、友人は「この中にCD何十枚分か の音楽が入っている。出張に出るときはこれひとつ持っていけばマーラーの10の交響曲だって全部聴ける」と少し誇らしげに語ったのだ。いうまでもなくこれ が、僕がiPodという携帯型デジタル音楽プレイヤーを実際に見た最初の瞬間だった。それからすぐに僕もこのシンプルな魔法の小箱を手に入れて、いまでは 家の中でさえ音楽はこれでしか聴かなくなっている。

 さて、このところ小説家の方と会うと必ず話題になるのが、「紙の本はなくなるのか」というイシューである。海の向こうのアメリカでは、今 年に入って新たな電子書籍端末も登場して、すでに200万台以上売れているといわれるキンドルとともに、人々が本や雑誌や新聞をデジタルで読む時代に入っ たという認識が生まれつつある。日本では、まだ日本語対応の本格的端末が登場していないことや電子書籍の市場自体が未整備なため、遠い異国の話のようにも 聞こえるが、iPodのことを考えると、小説を電子書籍端末で読む時代はすぐそこまで来ているという状況はひしひしと感じる。

 このことに対して、小説家の方々の反応にはさまざまなものがある。いち早くデジタル対応の新しい小説のかたちを模索する人、電子書籍端末には絶対 に自分の小説は載せないと宣言する人(僕としては圧倒的に応援したい)、そのほかにも小説と電子書籍端末の親和性に関して根本的な疑問を呈する人などいろ いろな意見を聞く。「紙の本はなくなるのか」という命題についても、「なくならない」とする考えが大勢だが、それがいまより規模は小さなものになっていく だろうと誰もが心ならずも思っている(寂しいことだが)と僕は感じた。

 ほんとうにここ10年のiPodのことを考えると、キンドルやiPadで小説を読むことが日常的な風景になることは不可避のことのように思える が、そのときどんな小説が読まれているのかが、実は僕はたいへん気になっている。「紙の本」でしか書き得ない小説というものがあるとするならば、果たして 電子書籍端末でもそれは生き残れるのか、少し心配である。

( I )

2010年4月号 【71】

 書棚の奥に「世界の文学」という全50巻の文学全集が並べてある。スライド式の書架なので、ふだんはその前を写真集などの大判の本が往き来しているのだが、ときどき奥から取り出してはその文学全集を開いてはいる。

 そもそも学生の頃、自宅の前にあった書店に予約注文して、毎月配本されるのを楽しみにしながら読んだ全集である。収録されているあらかた の作品に目は通しているのだが、なにせはるか昔の読書体験なので、細かな内容についてはかなりあやふやで、いまの仕事を辞したら1冊ずつ再読しようと思っ ている。

 まあ、それが現在のところの、わが唯一の編集者リタイア後の人生設計なのだが、その楽しみのためにも、この全50巻は書棚の奥に鎮座させ ておかなければいけない。いまではめずらしくなった箱入りの立派な本なので、写真集の裏とはいえ書棚のかなりの部分をこの文学全集が占めている。しかし人 生最後の豊かな読書生活のために、この全50巻を書棚から追放しようと思ったことはいままで一度とて無い。

 最近、「キンドル」などの電子書籍端末の日本上陸が話題となっているが、もし日本版が出て僕の愛蔵している全集も電子書籍として収録されることになれば、それは小さな20センチ四方の端末の中に納まってしまうらしい。

 そうなれば全50巻の文学全集が携帯できるわけで、これはこれで便利なことなのかもしれない。旅行先でもこれひとつ持っていけば、「世界の文学」の好みの作家を全50巻の中からいつでもどこででも選んで読めることになる。

 ただ、その読書体験が、かつて書店に予約注文して、毎月それが配本されるのを楽しみに待ちながら読んだことと同じものだとは言えないだろ う。別に書物に対しての偏愛は持ち合わせてはいないが、やはり本で読むのと電子端末で読むのとでは、その読書体験には決定的な違いが生じるにちがいない。

 たとえ最後のひとりになっても私は電子書籍では小説は発表しませんという作家の方に先日お会いしたが、これはその人がいままで本を通して きわめて豊かな読書体験を築いてきたからであると感じた。いくら便利とはいえ、「世界の文学」はやはり電子書籍端末ではなく、昔、手に入れた本で読みたい し、そのほうが読書体験はより深化していくように思う。

 ということで、マルケスもパヴェーゼもロブ=グリエも書棚の奥で老後の僕を待っている。

( I )

2010年3月号 【70】

 ある冬の昼下がり、自分よりはるかに若い小説家と簡単な昼食を済ませたあと話していたとき、「果たして人間がまったく登場しない小説は可能か」とい う話になった。設定としては人類がまったく死に絶えた来の地球、あるいはネットの中で起きている情報の流通。ひとりの人間も登場させることなく、物語を展 開することは可能なのかという話になった。

 結論から言えば、これは絶対に不可能であるという地点に、食後の気まぐれな議論は達した。小説はいうまでもなく言葉によって書かれる。そ の言葉を発明したのは人間である。始原、言葉は単語として存在していたと思われる。それが集まり文章を形成していくとともに物語が生まれてきた。いや、も しかしたら人間は物語を語るために文章を開発していったのかもしれない。いずれにしろ文章とともに生まれた物語は、その後、文字の登場で「語る」ことから 「書く」ことに進化していき、ようやく小説というジャンルが誕生することになる。

 さて人類が死に絶え人間がひとりも登場しない未来、あるいは電気信号のなかで成立する情報の行き交う世界、それらを“文章化”することはできると 思う。単なる言葉の羅列、あるいは文章の列挙になるかもしれないが、ともかく書くことは可能なのではないかということになった。しかし果たしてそれが小説 と呼べるものなのかというところで、若い小説家はこんな概念を持ちだしてきたのだ。僕より少し年上のいわゆる全共闘世代の作家が、小説についていつも明快 にこう言い切っているという。

「小説とは、人間を書くものである」

 ひどく当たり前の考え方だが、その時の僕は、「人間は死にゆくものである」という真理と同じくらいの共感を、この発言に持った。

 未来や世界を描くのではなく、人間を書く。それを僕はこうも翻訳した。ストーリーや展開を描くのではなく、人間や心理を書くのだと。

 言葉が、人間が発明したものである限り、それらを駆使して表現する小説は、人間から片時も離れられない。言葉が人間の意識を通じて発せられるもの である限り、人間は物語や小説の手前に必ず存在しているのである。つまり物語や小説を語ったり書いたりすることは、究極的にはその主体たる人間を描くこと に他ならない。ではコンピュータが書く小説ではどうなるのか、若い小説家との議論は昼下がりがとうに過ぎても、まだ続いていた。

( I )

2010年2月号 【69】

 映像が初めて「物語」というものを得たのは、1902年フランスのジョルジュ・メリエスによって脚本・監督された『月世界旅行』という14分の映画 だとされている。この作品は大砲から発射されて月へ行った人間がその地で“月人”に出会うというもので、ストーリーのもとになったのはジュール・ヴェルヌ とH・G・ウェルズの何本かのSF小説であったという。

 もちろん当時はまだ映画はサイレントであり、音声はなく映像のみが展開されていくものであったが、それまでの馬が駆けたり汽車が走ったり するだけのいわゆる見世物的映像から脱却し、人間の知的想像力を強力に刺激する「映画」というものが出現したのである。翌年アメリカでも『大列車強盗』と いう物語性を持った作品が公開されるが、メリエスの『月世界旅行』がヴェルヌとウェルズの小説を下敷きにして生まれたという事実は、その後の映画と小説の 関係を考えるうえでとても興味深い。

 考えてみれば小説はメリエスの作品から始まって、これまで映画に数々の原作を供給してきた。トーキー時代に入り登場人物がセリフを発するようにな ると、小説の中の文章や言葉もそのまま映像の中に移しかえられた。しかしその文章や言葉はすでに小説ではないのだ。小説は映像を与えられたとたんに水を掛 けられた墨文字のようにかたちを変えてしまうのである。よく原作に忠実に映画化されているという映画評などを見かけるが、実はそんなことはありえない。小 説は映像の中にとりこまれた時点で小説ではなくなるのである。

 よく小説家が自分の作品の映画化に際し原作に忠実になどという注文をつけたりするが、これはどだい無理な話なのである。小説家は映画に作品を提供 した時点で、その作品がどうなろうと自らコントロールするのは諦めるべきなのである。そしてもし自分の作品を大切にしようとするのなら、映画に原作を提供 するのは断固やめるべきであると思っている。

 2010年は3D映画の元年といわれている。評判になっているハリウッド製3D映画を観たが、映画はその草創期に駆ける馬を見せたり向かってくる 汽車で驚かせたりしたのと同じように、ますます見世物的になっていると感じた。この調子でいけば映画はもしかしたら物語を必要としなくなるかもしれない。 そのとき小説は再び映画を凌駕し、「物語の王」として復権を果たすことができるだろうか。

( I )

2010年1月号 【68】

 若い頃、書き出しの数十行を諳んじられるほど愛読した小説があり、その、後に世界的文学賞を受けることになる小説家が書いた絶望的な青年の物語を、 炎熱の砂漠で塩を舐めるかのように何回も辿りながら、そこで展開される言語の群れを自分なりに頭の中で映像に移行しようと試みたことがあった(この文章で その小説家が誰であるかは大方察しはつくと思う)。 

 実はその小説は、発表された1960年代に一度映画化されているが(あの小説を映像にするなんて大変に勇気のいる行為だ)、最近、ようやくあるミニシアターの連続上映の一本として映画化された作品を観ることになった。

 これまであまり映画館で上映されることもなかったし、もちろんDVD化などの話も聞いたことがなかったその作品だが、同じような趣旨で会場に足を運んで来ていたかどうかはわからないけれど、観客席は自分とほぼ同年代の観客を中心に余すところなく埋まっていた。

 映画は、冒頭から小説の文章をそのまま引用して始まったのだが、その時点で観客席にはすでに失笑が起きていた。映像では1960年代の日 本が映されていくのだが、これにかぶされた小説の文章は古色蒼然の感があり、俳優たちの肉体を借りて語られる小説中の言葉も空中を浮遊しているかのように リアリティを感じさせないものだった。ざっと半世紀近くはたっているのだから、それも無理のないことなのかもしれないが、映像をともなった文章、または肉 体化された言語の、はなはだしい風化現象にはとにかく驚くばかりだった。 

 映画を観ていささか驚いたため、家に戻りその小説を書棚から引っ張り出し再読したのだが、映画で感じた「風化」は小説ではいっさい感じず、むしろ映像や肉体によって貶められた文章や言葉が、あらためて活字の海の中から浮かび上がり、輝きを取り戻したのである。

 小説は言語の芸術である。それが映像に移しかえられたときの脆弱さに、すべての小説の書き手は警戒心を持たなければいけない。小説と映画 は別のものとして遇さなければいけない。やすやすと映画の中に小説の文章や言葉を引用させてはならない。小説家は映像の力を借りることなく、文章や言葉の 力だけで世界を構築しなければいけない。そのために言語の力を磨くのだ。

 家に戻り諳んじられるほど憶えていた小説の書き出しを読みながら、あらためて映像などに負けるものかと独り思うのだった。

( I )

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