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2015年12月号 【139】

 すでに誌面を読まれた方はお気づきかと存じますが、「from BOOKSHOPS」がこの12月号で最終回を迎えました。「きらら」の創刊から書店員のみなさまにはお力添えをいただき、本当にありがとうございました。

 学生時代に書店でアルバイトをしていたことがあるほど本屋が好きで、書店員さんの頁を担当できたことが嬉しく、出来立てほやほやの「きらら」を片手に、広報担当の気持ちで書店を飛び込みで回ったのが今では懐かしい思い出です。

 書店員さんのお薦め本コラムをベースに始まったこの頁でしたが、新規オープンの書店を取材したり、ご当地座談会と称して、地元の書店員さんに集まっていただいたり、直木賞・芥川賞の発表に合わせた記事を掲載したり。その時その時の「現場の熱」をお伝えしたいという思いで、今まで編集をしてきました(「WEBきらら」ではまだ当時の記事を読むことができます)。

「きらら」の名物企画になった「書店員さん×作家さん」の鼎談が、これだけ回を重ねることができたのもみなさまのおかげです。鼎談をきっかけにそのお人柄に触れ、ぜひお仕事をご一緒したいと、小説の執筆をお願いした作家の方もいらっしゃいました(一年半の連載を経て、その単行本も今月末に刊行されます)。

 この十年強の間、書店員のみなさまと密度の濃いお付き合いをさせていただき、感謝の気持ちでいっぱいです。やりとりが続くうちに、プルーフ本の感想を担当編集者よりも真っ先に送ってくださるようになった方。私が影響を受けた作家さんのことを熱く語っていたら、昔、夢中になって読んだというコミック本を送ってくださった方もいました(今でも大事にデスクの棚に入れています)。書店頁を通して繋がったご縁で、私自身の編集者生活も彩り豊かなものになりました。

 書店頁はいったん幕を閉じますが、ライターの瀧井朝世さんがご担当の新刊インタビュー「Pick UP」や、館石直進さんのコミックエッセイ「本の妖精 夫久山徳三郎」は、今後も連載が続きます。熱烈インタビューの鼎談も、特別企画として、ひょっこりと復活するかもしれません。その時は温かく迎え入れていただけますと幸いです。

 これからも「きらら」をご愛読いただけますと嬉しいです。そして応援よろしくお願い申し上げます。

(「from BOOKSHOPS」担当/m)

2015年11月号 【138】

 休みを利用してデス・バレーに行ってみた。訳すと死の谷。そのこわい名前に負けず劣らず、見渡すかぎりのかわいた大地と情け容赦ない日差しが照りつける、ある意味、地球、とか自然、をとても感じさせてくれるところだ。

 十九世紀半ば、カリフォルニア州にある金鉱を目指していた一行がこの地に迷い込み、生き死にを意識せざるを得ないような、過酷な状況に追い込まれたことに端を発している地名だという。

 実際、人間がふつうに生活できるところではもちろんない。そんなところだからなのか、人間のちっぽけな感じとか、無力感のようなものを物凄く意識させられるばかりで、しばらくこの場所に閉じ込められて脱出できなくなった夢とか、折節に見てしまいそうな恐ろしさや神々しさのようなものが、我が身に迫ってきた。

 煌びやかなラスベガス・ストリップにあるホテルから車をすっ飛ばして数百キロ、私をそんなところに運んでくれたガイドさんは、自分の発したことばにもれなく独特の笑い声を付けて送り出すような、妙に明るい中年の日本人男性だった。

 この地に住んですでに四半世紀は経過しているというその男性が、いろんなデス・バレーあるあるを話してくれたのだが、なかなか自分のことは語ろうとしない。名前すら教えてくれないのだ(まあ、いいじゃない……あはははは!といった具合に)。

 ひとつだけ、笑い声の合間に、昔、バブル期に親の会社が大変な額の借財を抱え、一家離散となり、自分も日本にいたら、いまも命を狙われる身の上であることを独り言のようにして教えてくれた。

 そんなガイドさんの不思議な印象もまだリアルに残っている状態で、帰りの飛行機のなかである作家の方のエッセイを読んでいたら、最初の数作品は登場人物に名前をきちんとつけられなかった、という記述が出てきた。簡単にいうと、まだ自分の書いているものに確信のようなものがはっきりとは持てなくて、ようやく名前をつけることができ始めた作品から、ある種の覚悟のようなものを持つことができた、というのだ。

 点と点が繋がるような感じで、愛称だけは教えてくれたデス・バレーの日本人ガイドさんのかわいた笑顔が、ふと頭をよぎり、無粋なことを聞いてしまった自分を恥じるような思いがした。

( II )

2015年10月号 【137】

 その作家さん(Aさんとしておく)は、執筆の場所、というか位置そのものに意味を持っておられるようで、執筆に使用する長年愛用のパソコンの設置場所が、ファックス置き場の下にある宙ぶらりんなスペースになっているという。なぜ、その場所なのか、といった無粋なことはここでは問わないことにする。

 実際、その場所が、たいへん大事なポイントになってしまっていて、この場所をずらしてふつうにデスクの上にパソコンを置いてしまったりなんかしたら、もうなにかがおかしくなって書けなくなってしまうような口吻だった。

 そんなベストポジションでその日の執筆に一区切りをいれようとしたとたん、それは起こった。そこまで書き進めていた箇所に、どうしても調べてからでないと続きが書けないようなところが出てきてしまい、また、ある程度の距離はきょうはもう走ったな(書いた、の意)、という勘所もあり、まさに一段落、という局面だったという。そのタイミングで、自分の頭上から、急にファックスの受信をつげる例の作動音とともに、プリントされたものが吐き出されてきた。

 おもむろに手に取ったファックスには、まさにこれから調べ物が必要だった、ドンピシャな資料が刻印されていた。よくよく見てみると、それは担当編集者さんから送信されたもので、その日、図書館に行って、この資料がおそらく喫緊に必要になるだろう、と先を読んで送ったものだったようだ。これは、なにかの徴に違いないと思ったAさんは、そのまま、一気呵成に筆を進めていったという。

 この話をきいて、なにか大仰な意味ではなく、創作の息吹というか、意味がちょっと違うが、God bless you的な「風」を感じてしまわざるを得なかった。もともと、Aさんは、プロットなどをつくることなく、文字通り、どこか不分明な場所から降りてくるものを自動書記的に書いていく傾向がある方だとうかがっていたし、まさに氏の面目躍如たるエピソードとして印象に刻まれた。もちろん、ここまでの憑依型の作家の方でなくても、なにか大きなものに向かって書いたりしている感覚にとらわれることがある、という話は比較的よく耳にする。縷々考えているうちに、Aさんの執筆空間が、結界が張られた聖域のような場所にさえ思えてきてしまった。

( II )

2015年9月号 【136】

 会社で一般読者の方から問い合わせの電話を受けた。聞けば、75歳の女性の方で、購入した小説に出てきた「ものかは」という言葉の意味を教えてほしい、という内容だった。ものかは。「ものともせず」とかそういった意味の言葉だが、その旨お伝えすると、喜んでいただけた。その流れで、いままで本を読んでいてわからない言葉などがあると、辞書をひいたりしていたのだが、最近、文字が小さすぎて読めなくなったという話になった。現在、子供ふたりは成人して一人暮らしというその女性は、息子さんに「インターネットなどは使わないように」といわれているという。昨今の詐欺まがいの被害に遭うことを恐れて、というところが大きいようだ。なので、自然、わからない言葉に出くわすと、調べる方途が思い浮かばず、本の奥付の編集部の番号に電話をするのだという。

 この女性とのやりとりを通じて、ふたつのことに感じ入った。ひとつは、自分自身、なんでもかんでも、すぐにインターネットで調べてわかった気になってしまう悪癖があること。たしかに、即座に不分明なことが明らかになり、便利ではあるのだが、条件反射的に検索窓にワードなりを打ち込んでしまうことが増えてしまい、そういえば、以前ほどには辞書をひいたりしなくなっていることに気付かされた。

 もうひとつは、ネットで調べてわかった事項よりも、辞書をひいたり、ひとに聞いたりしたことのほうが、後になって考えれば印象に留まりつづける、ということだ。たとえば、昔、漱石の本を読んでいて、よくわからない花や草木の名前をその都度、片っ端から一生懸命調べていたころのことは今でも覚えている。辞書をめくるときの指にページがくっついてくる感触や、しだいに小口のところが使い込まれて汚れていく様を見てなぜかうれしくなるような感覚は、他ではなかなか味わえないものだ。

 最後に。先の女性から、今の自分のような状態の場合、こうして電話をして意味を聞く以外、なにか妙案はないかと問われ、ふと思い出したのが、同じような年齢である自分の親に少し前に電子辞書をプレゼントしたことだった。

 後日、息子さんから、たいへん使いやすい電子辞書を贈ってもらい、重宝していることを記したご丁寧な手紙が編集部に届いた。こちらのほうが、いろいろと教えていただいたようなところもあり、少し面はゆい気分になった。

( II )

2015年8月号 【135】

 ある地方の名画座にふらりと立ち寄った際、思わず感嘆の声をあげてしまった。ここ十数年で印象に残っていた映画のひとつ「父、帰る」の監督、アンドレイ・ズビャキンツェフの完全スルーしていた近作二本を連続上映するというのだ。その場に居合わせた知人に、鼻息も荒く、この監督のデビュー作がいかに自分の心に刻まれているのか、うっとうしくも語り出そうとしたところで、言葉が出てこなくなった。どうでもよい枝葉のようなエピソードや若い出演者のひとりが撮影後に亡くなってしまっていたことなど、およそお話の要諦から少し離れたことしか思い出せない体たらくである。

 常日頃、記憶力の減退を激しく自覚しているつもりだったが、ついにここまで来てしまったのか……と心折られるような気持ちになった。むろん、これまでも、劇場で観たはずの「スター・ウォーズ」のエピソード1を数年後に何かの機会に観た際にひとつのシーンも覚えていなかったことに気付き、愕然としたことはたしかにあった。だが、自分のなかでは先の映画のような印象の刻まれ方とはまったく異なるレベルのものだったはずだ。というわけで、俄かに自分のことが信じられなくなってきた私は、これまで読んできて印象に残っている小説の梗概を試みに思い起こしてみたのだが、これがまた、どうにも危なっかしいことに気付いてしまった。そんな自分のヤバさにもはや半笑いになるしかない状態に陥りかけていたときに、読んでいたある小説のなかで、こんな内容の一文に出合った。曰く、小説を読んでいる側の心のなかは絶えず一定というわけではなく、いずれその中身も時間とともに変質してしまうものなのだ、と。

 たしかに一つの小説でも読むたびに異なる印象をもったり、別の個所に目が行ってしまうことがあるのはよくいわれていることだし、同じ小説を読んでいる時間のなかでも、不安定な流れのようなものは避けがたくあるように思われる。結局のところ、一つの作品に対して、それを読む側の捉え方はまさに千差万別であり、同一人物内でもかように捉えがたいイメージのものであるといわなければならない。ひとつの本の形になっていると、不変の、安定したまとまりとして考えられがちだが、プレーヤーのないレコードやCDと同じで、それは、読み手次第でたちまち存在の覚束ない、黒い文字が連なっただけの不確かな塊に見えてきてしまうから不思議だ。

( II )

2015年7月号 【134】

 このページをお読みいただいている数少ないありがたい読者の方から「なんだか、七面倒臭そうなことばかり書いていて、よくわからない、なんとかならないのか」というご指摘を受けた。これはいったい、どうしたことだろう。というわけで、この機に少し考えてみた。

 自分が本項を書き始めてからの来し方を振り返ってみると、ふだん作家の方々と話したり、彼らから聞いた話を自分なりに考えたりしている話を書いてきた積もりである。というか、そういう話のみをできるだけ意識しながら書いてきた気がする。それだけ、彼らから発信される話やなんかに、常々自分が魅了されてきたということであり、小説の編集をしている醍醐味のひとつもそこにあるような気がしている。

 しかしながら、喫茶店やお酒の席などで、まわりのひとが与太話なんかをしている場面で話すにしては、間違いなく妙な話をしていて、ちょっとというか、かなりまわりから浮いた感じになってしまっているのかもしれない(ときどき、声のよく通る作家の方といっしょだと、隣のテーブルのお客さんが、明らかにへんな顔をしてこちらをチラ見したりしている気配を感じることがあるが、要は、そういう趣旨のリアクションなのだろう。無論、その手の話の時には、こちらも一点を見据えた感じのまま、何かに取り憑かれたような態で興奮気味に相づちを打ったりしているので、余計に危険な感じの空気をあたりに振りまいているのかもしれないが)。もちろん、くだらない話もたくさんしてはいるし、あとでなんの話をしてしまったんだろう……と頭を抱えたくなるような恥ずかしい身の上の話をしていたりもするのだが、作家の方々としかできない類いの話(その人が書いた作品の話や、勧められて読んだ本の話とかにとどまらない、なんというか、その書き手自身から思わずといった感じでにじみ出てくるようなものの見方や考え方、果ては所作振る舞いまで)がいろんな意味でおもしろすぎるのだ。

 だから、どうしてもその「おもしろい感じ」を言葉にしようとして躍起になってしまうのがこの項の避けがたいところなのだが、ある作家の方曰く、「でも、そういうのを言葉にしたとたん、それはなんというか、べつのものにするりと形を変えてしまうんだよ」。

 至極名言。それでも、言葉にしたくなるのはなぜなんだろうか。

( II )

2015年6月号 【133】

 ある作家さんが、自分で書いた記憶がないような文章をできるだけ書きたい、そのために、いろいろと試みている、という大変興味深い話をしていた。具体的にいうと、意識を次第にフロート状態にしていき、小説を書いている途中で、自分の無意識が書かせる一文なり、一連の文章の連なりをつくり出すことを心がけているというのだ(なぜ、そんなことを? という疑問には今回は触れないでおく。それを書くには、この項はさすがに短すぎる気がするから)。

 これはどのような状態なんだろうか。「気絶するような」感じで書いているのが近いのだろうか。よく、原稿を書いているやけにリアルな夢を見ることがある、という話を作家の方々から耳にすることがあるが、これにかなり近い状態なんだろうか。

 とにかく、文字通り意識が飛んでいくのだから、たとえばある種のライティング・ハイ状態を持続していって、然る後にジャンプし、理性の監視から逃れていくような「飛ぶ体験」をつくりだしていくことに間違いはないはずだ。一種のトランス状態というか、痴呆のような状態を作り出す作業が必要になる訳だが、その書き手の方は、静かーなところで、さらにヘッドホンをして、音がまったく聞こえない真空状態のようななかで、ようやくそういう「回路」に入ることができるのだという。

 しかしながら、こうした書き方を自覚的に取り入れている人の書いたもので、いったいどこがそうした「無記憶」状態のものなのか、読み手には、ほとんどわからない気がする。おそらく、それは、書き手のひとにしかわからないものだろう。いや、しばらく時間が経つと、当の本人でさえ、どこがそうした形で書かれたものなのかもわからなくなることもあるというし、場合によってはそんな風にして書いたという記憶すら飛んでしまうこともあるという。よく作家の方が著者インタビューを受けて、ライターさんの質問に答えられなかったりする場面をたまに目撃するのだが、これなども、いい加減に書いたのではもちろんなく、その時、そう書いただけで、今となっては思い出せない、という強い実感しか残らないのだろう。「よく登場人物が勝手に動き出す」という言葉を耳にするが、それはもしかしたら、このような意識的な助走をとることでようやくたどり着けるような、作家の方には僥倖のような瞬間なのかもしれない。

( II )

2015年5月号 【132】

 小説の文章を読んでいるうちに、何かが引っかかって別のことを考えてしまうことがある、という話を少し前にここで書いたが、場合によっては、まったく関係のない「え、そこ?」と思わず自分にツッコミを入れたくなるような、一見何の関係もない、単に集中力不足なのでは……と疑われても仕方ないようなケースも、実は含まれていることも白状しなければいけない。

 しかしながら、そんな話を自虐的にある作家さんにしたところ、いやいや、原因はもっとべつのところにあるのではないか、と、目からウロコが落ちるような解釈をしていただいたので、ここに少し書いてみる。氏がいうには、小説自体に、いや、書かれたもの自体に、そもそも読み手を回想や過去の時間軸に誘うような機能が装備されているのだから、そうしたことは起こり得るというのだ。話を聞いていて一瞬「ん?」となったが、要は、そもそも文字自体が書かれた瞬間、過去のものになるという特性を帯びていることに起因しているという。

 よく聞く「作家さんあるある」のなかに、「記憶力がいい」だの、もっというと、記憶の細部の保存状態が素晴らしいだのといったものがある。冷静になって考えてみれば私小説でもないかぎり、実体験をそのまま小説に埋め込むようなことはそれほどある訳ではないだろうし、むしろ、巧みに自身の記憶を物語のなかに紛れ込ませるケースのほうが圧倒的に多いはずだ。そう考えてみると、ここでいう「作家の記憶力」なるものは、世にいう一般の記憶力とは少し異なっていて、どちらかというと、物語の状況に応じた記憶の取り出し方、及びその加工の仕方といったテクニカルなものとして考えたほうがよいのかもしれない。話が少しそれたが、書かれたもの自体が過去へ向かう習性をもっていることと、(読み手が考える以上に)書く上での「記憶の細部」が持つ意味の大切さとは、少し関係があるような気がする。

 現在の時間であろうと、未来の出来事を書いていようと、それが書かれたものである以上、書いた瞬間から過去感が辺り一面に漂い出し、だからこそ、小説を読むということは、回想や反芻といった過去の時間へ向けてのベクトルを読み手にも無自覚のうちに強いてしまうこともあるのかもしれない。

( II )

2015年4月号 【131】

 あるミュージシャンの方から、作詞するときに、最初にまずフレーズが生まれて、そこにあてはめるように詞を思い浮かべるという創作の流れをきいて、当たり前のことだが、やはり、小説の書き方とはけっこう違うなあ、とへんなところで感心してしまった。小説の場合、音楽が鳴って、そこに乗せるように文章を書いていく、というような話は聞いたことがないし、実際、あったとしたら、とてもおもしろい気がするが、ちょっと実験的な作風のものになってしまうように思う(書き手が、鼻歌みたいにふんふんいいながら、キーボードをパチパチやっている絵を想像するだけで、なんかおもしろい感じがする)。

 もちろん、件のミュージシャンの方も、書き出しの詞の部分には神経を使うという。小説でも、書き出しがとても重要視されている事は、ここに述べるまでもないが、これが浮かぶまでに試行錯誤している感じがものすごく出ている場合と、割とするっと始まっているように思える場合があったりするから不思議だ。ものすごく考えて出てきたものなのに、そんな感じを思わせずにさらりと始まっているものが個人的には好みである。 あっ、と思ったら、書き手の文章のリズムに乗せられて、どんどん川を下っていくような、気が付けば流れるように物語の風景が動きだしていく感じのような。最初の一文から、次の一文が紡ぎ出され、ということが際限なく繰り返されて文章のうねりがたちあがっていく。

 しかし、である。どんなに精緻に書かれているように思える文章が連続して続いていったとしても、それは必ずしもそれだけのことではなかったりする。例えば、試みに書き手がまるまるあるブロック分の文章をうっかり消去してしまったとする。そのあと、急いで、リカバリーするように同じ文章を打とうとしても、決してその通りにはならない。だからこそ、一度書かれたものはそれ以上でも以下でもないが、同時にかけがえのない、一回性のものという偶発性もはらんでいることになる。

 話がどんどんずれていってしまったように思うが、小説を書いていく作業には、フリージャズ奏法とまではいかないまでも、音楽における、いわゆるセッション的な感覚がすこしは含まれているのではないだろうか。小説と音楽は、その作り方において、似ていないところもあるし、似ているところもあるのである。

( II )

2015年3月号 【130】

 少し前に見た映画「インターステラー」のあるシーンが頭から去らない。ある目的から、宇宙の彼方へ出発した主人公のマシュー・マコノヒーが、先行して旅立った科者を演じるマット・デイモンのいる惑星に向かい、そこで彼の乱心に遭う。そのまま、マコノヒーが乗ってきた小型機を奪い、彼らの母艦に向かうマット・デイモン。そこで、問題のシーンは描かれる。小型機がアームのようなものを出して母艦に繋がろうとするのだが、これがなかなかうまくいかない。なぜか何回も失敗する。しだいに焦り始めた彼の心情をあらわすかのように、映画は執拗に母艦に向けてアームをカチカチとやるさまを描き続ける。やがて、強引にことを進めようとした母艦がエラーメッセージを読み取ったのか、突然、母艦は自壊する。そして、それとともに、小型機も、一瞬にして粉砕される。

 ここで自覚的に意識されているように思うのは、監督のクリストファー・ノーランが採用した視点の操作だ。普通だったら、小型機のなかのマット・デイモンの勝ち誇ったような表情が一転して、焦りとも狂気ともつかないようなものに変化しつつ、機内は爆発の光源に呑まれていくような演出がまず考えられる。しかし、ノーランはそうした視点を採用しない。あくまでカメラは俯瞰した神の目線に固定され、小型機の外側からそれを描くことで、マット・デイモンの芝居の為所を排除してしまう。彼の焦りや暴力的な衝動は、小型機が母艦にリーチさせようとするアームのカチカチと反復される動きのみによって描かれていくのだ。この、カチカチと繰り返される様が、見ている側にかなりの緊迫感を与えてくれる。なにか不穏なことが起こるスリリングな気配が、それを俯瞰した視線から見ることで生まれる妙なリアリティー(本当らしさ)を獲得しているように思うのだ。

 実際、いくら映画という虚構のなかの出来事とはいえ、お定まりの機内での登場人物たちの百面相を見ても、それは芝居をしている、という意識に観客を縛り付けてしまう。しかし、機体が爆発する、という映像自体は、実際にはロケットの打ち上げ失敗映像を見ても明らかなように、リアルなものとして見る側に刻印されている。こうした視点の操作による本当らしさの技術は、小説を読んでいてもときどき見受けられるもので、映画と小説の表現の仕方の近接性を少しだけ感じとることができる。

( II )

2015年2月号 【129】

 最近、どうもいけない。以前にも書いたかもしれないが、原稿や本を読むスピードがとんでもなく遅くなってしまった。もともと、本を読むのは遅かったが、最近、その傾向に拍車がかかっている気がする。仕事に支障が出るレベルだ。というわけで、自分がふだん本や原稿を読んでいるとき、どんな風にして読んでいるのか、少し検証してみることにした。

 たとえば、こんな文章の場合。語り手があるミュージシャンのライブを見ていて、理由もなく涙を流した、こんな風に落涙したのは、舞台で馬が走っているのを見たとき以来だ、というくだりが出てくる。そのとき、馬が舞台を走るような、ありえないことを指すような中国の故事とかが実際にありそうだな、と瞬間意識が飛んでいく。そのあと、ありえない→有り難い→ありがたい、と連想が続き、とすると、この涙は、崇拝するような、文字通り感謝の気持ちから来るような涙なのではないか、そのライブもきっと神々しいものだったにちがいない、といった具合に脳内の連鎖が止まらなくなってしまう。当然、文章を追うことはしばし中断されてしまう。

 また、別の文章の場合。登場人物の少年が外で遊んでいて、近所の窓から流れてくる、カレーのスパイシーな香りや、まな板を包丁でリズミカルにたたく音に、お腹がぐうと鳴り、そろそろ家に帰ろうかな、と思うシーン。気付けば、自分も幼少期の頃の風景に飛んでいき、夕暮れのなか、団地でかくれんぼをしていると、きまってどこかの部屋から同じフレーズを練習しているピアノの音色が聞こえてきたことを頭のなかで甦らせている。たしかバイエルの「アラベスク」という練習曲の一節だと後年わかったのだが、そのなんとも切なく哀しみに満ちた音の運びに不安で胸が押しつぶされそうになり、ノスタルジックな回想にしばし時を忘れる。この間、当然のように文章を追うことは一時停止を余儀なくされる。こうして本を読むということに関して考え直してみると、その小説を読んでいる自分を含めて読んでいるようなことをやっている場合もあるんだな、と妙に感じ入ってしまった。というわけで、時間に追い立てられるように原稿や本をどんどん読まなくてはいけない自分のやっていることは、もしかしたらすこし乱暴なことなのかもしれない。

( II )

2015年1月号 【128】

 ここしばらくのあいだに、通勤途中の電車で同じ乗客を何回か見かけた。年のころは六十前後くらいの男性で、杖をついている。混み合っている電車に途中の駅から乗ってくる彼は、生まれたばかりの仔馬のような感じで、文字通り足がもつれるようにして乗り込んで来るため、当然、目の前のひとは席をゆずるのだが、しばらくして、ターミナル駅を過ぎ、乗客もまばらになるとにわかに脚を組み、目的の駅に到着するや、なにごともなかったかのように、すっくと立ち上がり、杖を手に携えたまま、確かな足の運びで電車から降りていくのだ。

 この人の話を、ある作家さんにしたところ、そんな話をカポーティの短篇で読んだことがあるという。ものすごく短い話だったけど、読後の感じが、私がした話に近いものがあるというのだ。

 そのときは、ふーん、そうなのか、と思い、話題は別のものへと流れていったのだが、なんとなく、その後も引っかかっていて、気になって家の本棚にあった「カポーティ短篇集」(河野一郎訳、ちくま文庫刊)をぱらぱらとやっていたら、たぶん、これだな、という短篇に突き当たった。「ジョーンズ氏」という原稿用紙4、5枚程度の掌篇小説で、内容は以下のような感じだ。

 語り手がブルックリンの下宿屋にいたとき、隣に目が見えず、両足の不自由な男性が住んでいたが、ある日、どろん、と姿を消してしまう。それから、十年経って、語り手がモスクワの地下鉄に乗っていたら、向かい側に座っていた男の風貌が、どうみても彼の男性の特徴ある顔立ちと重なってみえる。思わず声をかけようとしたところで、電車は駅に到着し、彼は両脚ですたすたと降りて行ってしまうところで話は終わる。

 この話を読み終わったとき、私は、ふしぎな気持ちにさせられた。ひとつは、自分が読んだはずのこの短い物語をまったく覚えていなかったことと、もうひとつは、この話を、件の作家さんにしなかったら、おそらく一生、カポーティの、この掌篇小説のことは心にとどめることがなかったであろうことだ。

 結果的に、今後、私は電車のなかで目撃した男性のことと、この短いお話のことを、しばらくは思い出すだろうし、カポーティの作品群のなかでも、とりわけて印象深いわけでもない一篇が自分の心にとどまってしまうことのふしぎを強く思わざるを得ないのである。

( II )

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