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 盛田隆二さん『二人静』
   もたれあうのでも励ましあうのでもなく、
  微妙に支えあっていくような関係性が書けたら。







  自由恋愛の世の中とはいっても、過酷な現実を背負っている人間たちにとって、恋は決して気ままにできるものではない。そんな状況のなかで、人と人が新たな絆を作ることはできるのか。盛田隆二さんの新作『二人静』は、事情を抱える大人の男女が出会い、少しずつ近づいていく様子を丁寧に描き出した大作だ。





実際の両親の姿を反映させて


 人生は計画通りに進むものではない。仕事や恋愛、結婚や出産に関してもそうだが、昨今の働き盛りの世代にとって大きな問題となっているのが親の介護。もしもまだ若くしてその現実に直面したら、大いに戸惑うであろうことは想像できる。本書の主人公、周吾は32歳、独身。数年前に母親を亡くし、父と二人で暮らしていたが、その父が認知症になる。彼は誠実にその事実と向き合い、そしてその過程で、一人の女性と出会い――。

 実は周吾の両親の設定は、盛田さん自身の家族とほとんど重なっているという。

「母親が死んで1、2年で、親父が認知症になり、要介護の状態になったんです。親父は気象庁で働いていた公務員で、頑固者だったんです。“銀流し”と呼ばれていたくらい、若い頃の写真を見ると色男なんですよ。家事は一切しなかった。そういう男が妻を亡くすと大変なんですね。8歳年下のお袋が先に逝ってから、急に気力をなくしてしまって。親父は大正生まれで今、88歳。認知症の症状が出てきたのは79歳のときでした。50歳を過ぎて親の世話をしてみて、恥ずかしいことに僕ははじめて大人になった気がしたんです。自分の妻と子供を支えながら親の面倒を見ることで、一家の要にいるという自覚がでてきた。もしもそれが32歳の独身の男だったらどうなるんだろうと思ったんですね。そういう男に、きれいな恋愛をさせてみたいと思ったのが、この小説のはじまりだったんです」

 32歳といえば、社会人として10年経った頃。それなりのキャリアを積んでいるとはいえ、まだまだこの先の人生は安泰、とはいえない時期にいる。

「不安になる年代でもありますよね。結婚していれば住宅ローンや子供の教育のことで頭がいっぱいになっているかもしれないけれど、周吾のように独身だと、次の10年間に自分は何をするんだろうと考えるときだと思うんです。大人だけれども、まだ子供でもある。なのに親の介護をすることになり、無理やり大人にさせられてしまうんです」

 ちなみに周吾の母親が数年前にパーキンソン病を患ったのちに亡くなったという設定も、盛田さんの実体験と同じ。

「母は看護師でした。高等小学校を卒業してから新宿にある看護婦養成所に入学して、それから50年間ずっと精力的に働いていたんです。親父とも患者と看護師として知り合ったんですよ。亡くなる直前まで川越の訪問看護ステーションの設立に奔走していました。70歳になってパソコンの使い方を教えてというのでインターネットか何かをしたいのかと思ったら、国が支給した介護費用の計算ソフトが分かりにくいから作り直したい、なんて言い出す人で。もちろん、家事もすべてやっていたんです」

 経験にもとづいて描かれる細部は、父親の振る舞い、介護施設のシステムなどにいたるまで実にリアルだ。

「親父の担当をしてくれた介護士さんにいろいろ話を聞いたりもしましたね。シーツのたたみ方なんかはインターネットの動画にアクセスして調べてみたりも」

 周吾は煙草の火の不始末など、昼間父親を家で一人にさせるのは危険だと思うものの、特別養護老人ホームは現在空きがない。そこでケアマネージャーのアドバイスを受け、短期入所が原則の介護老人保健施設の“のぞみ苑”に入所させることにする。そこで父親の世話を担当することになったのが、同い年の介護士、あかりである。




場面緘黙症の少女



 気立てがよく働き者のあかりは、シングルマザー。小学四年生の娘、志歩は場面緘黙症を抱えている。

「実は母親のあかりよりも先に、場面緘黙症の女の子が頭に浮かんでいたんです。現代ではそういう子供がかなり増えているようなのに、ほとんど知られていない。僕も実際に会ったことはないんですが、ミクシィのマイミクに、そういう子供を持つお母さんがいて、日々を切々と書いているのではじめて知ったんです。僕の本をいつも読んでくれているので、僕も何か言ってあげたいけれど何も知らない。それでいろいろな本を読んでみました。こういう子は、家ではにぎやかにお喋りできるのに、学校などでは何も話せなくなってしまう。症状が重い子になると、大勢の人の前では息を吐くこともできない、つまりくしゃみもできないそうです。よっぽどストレスのある世の中なんだなと思うのと同時に、考えてみると自分が小学生の頃もクラスに一人や二人、まったく話さない子っていたなと思い出して。そういう子を一生懸命育てているお母さん、というところから、あかりという存在が生まれました。家ではにぎやかに喋っていて、外ではシーンとしている母娘をイメージしました。そうした、ストレスを背負っている親子と周吾を出会わせてみたかった」

 互いに傷みを持つ大人の二人がシンパシーを抱くことは想像に難くない。「周吾にきれいな恋愛をさせたかった」と著者がいうように、恋の予感はすぐに訪れる。しかし、彼らが抱えているのは、家族の問題だけではない。周吾はかつて好きだった女性が自分に電話をかけてきた後に自殺したという過去があり、そしてあかりは離婚した夫に受けたDVの恐怖がぬぐえずにいる。新しい恋愛に対してはすっかり臆病になっているのだ。さらに、元夫の影もまだちらついている。それが二人の恋にとって、高いハードルとなってしまう。

「過酷な現実を背負っている二人が本当に大人の恋をしようとするのは、そんなに甘いものじゃないなと、途中から思い始めたんです。駆け引きをしている暇はないし、付き合おうと思ったら真正面から向き合わないと。辛いことを抱えている人同士が、我を忘れて互いに求め合えば救われて、ハッピーエンドに向かうこともある。でもこの二人の場合は、恋愛で我を忘れたって現実は変わらない。結局彼らはどうすれば救われるのか、自分でも悩みながら書き進めていくことになりました」

 その状況を動かしていくのは、周吾の不器用なほどに真っ直ぐな性格だ。

「どうしてか、僕の小説にはよく、なんでも包み込んでしまう男が出てくるんですよね。なんでも許してしまう男だな、と思うと自分でもちょっと嫌なんだけど(笑)。周吾は過酷な運命を呑み込もうとする。といっても、32歳はまだまだ・男の子・。どこまで頼りがいがあるのか未知数ななかで、あかりの元夫のDVの男の心さえ動かすには、どういうことをするのだろう、ということを考えました」




さまざまな・二人静・のかたち



 日常に追われて他人を受け入れる余裕すらないだろうと思われた男女が、少しずつ理解を深めていくさまが丁寧に描かれる。心と心が触れ合うのは、周吾とあかりだけではない。父親の恭三、そして娘の志歩も含めた四人が少しずつ近づき合っていく。そこにタイトルにこめた思いがある。

「二人静という山野草があるんです。二本の花穂の先に、米粒のように小さな白い花が静かに寄り添っているように見える。周吾とあかり、周吾と志歩、周吾と恭三、あかりと志歩、あかりと恭三……というように、四人それぞれが、おたがいに静かに寄り添っていくことを考えました。ですから途中から、四人のうちの二人が一緒にいる場面をなるべく多く作ろうと心がけました。もたれあうのでも励ましあうのでもなく、微妙に支えあっていくような関係性が書けたら、と思って」

 ただ激しく求めあうことや、つねに肩寄せあっていくことが、真実の愛情とは限らない。ではベストとはいかなくとも、何がベターな形となりうるのか。少しずつ形を成していく四人の関係性をどう受け取るかは読む人それぞれ。しかしそこに得がたい絆が生まれているのは確かだろう。




読者の感想で気づいたこと


 連載中から刊行後まで、多くの読者から感想が寄せられたという。盛田さんが不安に思っていたのは、実際の場面緘黙症の人たちがどう受け取るかということ。

「周吾と志歩は携帯のメールに文章を書きこんで見せ合い、やりとりするようになりますが、ツイッターで実際の経験者からそれは実際的ではないという指摘を受けたことがあったんです。そうしたらすぐに別の方から、“自分が小さい頃に携帯電話があったら、こうしてメールでやりとりしたかった”というメッセージがきて。著者の僕をおいて、場面緘黙症の人たち同士のやりとりが生まれていったことも(笑)」




まだあきらめていないから


 気づかされたこともある。志歩が周吾に送る文章は、小文字に変換できるひらがなはすべてそうなっている。例えば「ぁのヒトまた来るかも。(略)ぉかぁさんはこゎくて夜もねむれません。」といったように。

「実際に知り合いの小学生のお嬢さんからメールをもらったときに、そうなっていたことが印象に残っていて採用したんですが、読者から“切羽詰まった場面でも、志歩ちゃんのメールの文章の幼い感じが救いになっている”とあって。確かにそうだなと思いました」

 また、登場人物たちの台詞に「うん」という言葉が多い、という指摘も。

「“うん”という二文字のなかに“ありがとう”とか“分かっているよ”などと、いろんな意味が込められていることが分かる、と。振り返ってみると、小説の文体そのものが人間同士の信頼関係を表すリズムになるといいな、と思いながら書いていた気がしますね」

 実は、ラスト1行にも“うん”という言葉が使われている。そこにこめられている思いには、実に深いものがある。

 雑誌では3年前からはじまった本書の連載。実は19か月目にさしかかった頃、執筆が一時ストップしたことがあった。

「ひとつは、親父の認知症が、小説よりも進行してしまってそれどころではなくなってしまったことが理由。もうひとつは、過酷な運命を背負った二人がどれだけ愛し合ったって、現実は変わらないんだよ、という思いにとらわれてしまって。周吾にどう行動させるか、悩んでしまったんです。それで半年間書けなくなりました」

 そのとき心に浮かんだ言葉を、冷蔵庫にマグネットで留めて毎日眺めていたという。それは「きみがつらいのは、まだあきらめていないからだ」。本書の刊行後のある日、盛田さんのツイッターにはそのエピソードに触れて、こう記してある。

〈半年後やっと回復して紙片を外すことができたが、そのときに感じた解放感と奇妙な淋しさをいまでも憶えている。〉

 著者と同じように周吾たちも、投げ出したいほどの現実と真っ直ぐに向き合っていくことができるのは、まだあきらめない、という思いがあったからかもしれない。そしてそれこそが、この小説が提示しているいちばん大きな救いの形ではないだろうか。





(文・取材/瀧井朝世)



盛田隆二(もりた・りゅうじ)
1954年、東京都生まれ。編集者の傍ら小説を執筆し、85年、早稲田文学新人賞入選。90年『ストリート・チルドレン』が野間文芸新人賞候補作、92年『サウダージ』は三島由紀夫賞候補作となる。恋愛小説の名手として知られ、著書に30万部を超える『夜の果てまで』、『ありふれた魔法』、短篇集『あなたのことが、いちばんだいじ』など多数。