伊藤朱里 × 島本理生 『きみはだれかのどうでもいい人』刊行記念対談

伊藤朱里 × 島本理生 『きみはだれかのどうでもいい人』刊行記念対談

 有能で完璧主義の25歳の正職員から、噂話が大好きな50代パートの既婚女性まで。世代も役職も異なる4人の同僚女性を描いた伊藤朱里さんの新刊『きみはだれかのどうでもいい人』が発売されました。直木賞作家の島本理生さんと著者が、今作の魅力や小説に描く「テーマ」について、熱く語り合いました。


文学では掬い上げにくい存在の声を描く

島本
伊藤さんの作品はデビュー作からずっと拝読しているのですが、最新作『きみはだれかのどうでもいい人』はすごくよかったです。テクニカルな面で上達しているのはもちろん、デビューから一貫して伊藤さんが書き続けてきた主人公の"叫び"のようなものが、語り手が複数になってもまったく薄れていない力作だと思います。どんな風に書き始めたんですか?

伊藤
原型になったのは、2話目の「バナナココアにうってつけの日」です。「お仕事小説を書きませんか」と編集者の方に声をかけていただいて、チャレンジのつもりで書いてみたんです。その後に一旦その話を保留にして『緑の花と赤い芝生』を書き上げてから、もう一度「お仕事小説」というテーマで自分が何を書くべきか、真剣に向き合いました。島本さんの『ファーストラヴ』に「助けたくない人間まで助けなきゃいけないのが医者と弁護士だ」というセリフがありますが、私の場合は、公務員という職業に対して同じことをずっと感じていたんです。個々がどんなに努力をしても、「これだから公務員は」と乱暴に括られてしまうし、そのつらさを立場上、公にはできない。

島本
公務員というだけで、「我々の税金で食べさせている」と悪く言われがちですからね。そんなことを言い出したら、どんな仕事だって誰かが払ってくれたお金で生きているのに。

伊藤
公務員って文学の世界では、声が掬い上げられづらい存在ですよね。だからこそ公務員をテーマにもっと書いてみよう、と思いました。一方で、SNSを見ると「私は被害者だ」「被害者はかわいそう」という声がものすごく多いのに、「自分は加害者だ」「悪いことをした」という声は圧倒的に少ない。この差はなぜなんだろう、という疑問もずっとあって。本当は誰もが被害者にも加害者にもなりうるはずなのに、加害者を糾弾する行為だけがどんどん簡単になっている。仕事小説という枠組みの中で、その恐怖を描きたいと思ったんです。

島本
私の場合は、男女の共依存や、恋愛とそうじゃない感情の境目がつきづらい部分を小説にすることが多いのですが、伊藤さんの作品は「女性同士」というさらに難しい、ヒリヒリするようなところに踏み込んでいますよね。『きみはだれかの~』では年代の異なる女性たちが語り手として次々登場しますが、加害者と被害者がきっぱり分断されるわけではない。どの女性の気持ちも等しく理解できる。そこが素晴らしかった。

伊藤
誰でも被害者であり、加害者にもなりうるという視点はすごく意識していました。作中では4人の語り手を出していますが、各章を書いている間は、その章の語り手のことだけを考えよう、その人の言い分を一番に大切にしよう、ということは注意していたつもりです。自分より上の世代の女性たちの心理を書くことも、今回初めての挑戦でした。若いときは失うものがないから、大きなものにも噛み付いていく力がありますよね。でも年齢を重ねていくと、そんな単純な話では済まなくなってくる。無理に背伸びせずに、今の自分の延長線上にある気持ちを想像しながら書きました。アガサ・クリスティの『春にして君を離れ』は母親の心理を描写する上でとても参考になりましたね。

島本
あの作品はいいよね。一見すると母親だけが無自覚に自己中心的に思えるのだけれども、じゃあ彼女のことを他の誰かが理解しようとしてあげてるのか、というと誰もしていない。その圧倒的な絶望感がなにより印象的でした。

伊藤
そう、改めて読み返すと、みんながみんなそれなりにひどいんですよ。知らず知らずに誰かを踏みにじったり、傷つけたりしている。

伊藤朱里さん

島本
クリスティはあの小説の中で、絶望的な事実を淡々と冷静に書いていますよね。でも、『きみはだれかの~』では、お互いに理解し得ない部分があることを描きながらも、絶望と希望が混在している。その見せ方がすごく巧みだし、ある種、現実以上にリアルだとも感じましたね。私たちは現実では、一人の人間としてしか生きられない。でもそんな読者の視点をググッと引き上げてくれる。そういうよさがある小説だと思います。

尖ったものを抱えたままでも人は祈ることができる

伊藤
私、作家の先輩として今日はたくさん島本さんにお聞きしたいことがあって。たとえば、『きみはだれかの~』もそうなのですが、今まで私は複数の人物の考え方を取り入れて価値観を分散することで、長編を書いてきたんですね。でも島本さんは、主人公限定の視点からの長編もたくさん書かれていますよね。どんなことを気をつけているのでしょうか。

島本
作品との距離感、かな。ただ、純文学のほうがその距離が近くなる傾向があったかもしれないです。そのときはあえて混沌のままでいったん出したものを、後から整理しなおすことが結構多いですね。ジャンルごとに文体を書き分けるのと同じように、作品との距離感も意識して変えています。

伊藤
今回の最新作とその直前に出た『あなたの愛人の名前は』を読み比べると、すごく意識的に書き分けていらっしゃるのがわかります。最新作の『夜 は お し ま い』では宗教や祈りがテーマのひとつになっていますが、島本さんが宗教に興味を持つようになったのは『アンダスタンド・メイビー』のあたりからでしょうか。

島本
そう。私が子どものときに、地下鉄サリン事件が起きたんですよ。そのときに、仏教でもキリスト教でも神道でもないカルト宗教の存在を初めて知って。いつか書きたいと思って新興宗教について色々調べていくうちに、自分が書く罪悪感や愛というものは、新興宗教よりもむしろキリスト教に近い気がしてきたんですね。

島本理生さん

伊藤
私は学生時代からずっと島本さんの作品を読み続けているのですが、作品から一貫して感じるのは"祈り"なんです。誰かのために祈るということが、どんなジャンルの作品でもずっと根幹にあるように感じていて。

島本
確かに、祈っている主人公は多いかもしれません。伊藤さんの『きみはだれかの~』の後半にも、「祈り」という言葉がたくさん出てきますよね。興味深かったのは、尖っている部分を内包したままで「祈り」という行為に向かっているところ。祈りってすごく善良で献身的なイメージがありますよね。でもこの小説では、そうではない祈りの形が描かれている。尖ったものを抱えたままでも、人は祈ることはできるんだ、というところが印象的でした。

伊藤
私の中では、祈りは儚いものというイメージがあるんです。不完全で未熟な祈りは、やっぱり長くは続かないだろうと思っていて。いっときは祈っても、尖ったままでまたすぐに日常に戻っていくのかもしれない。これは多分、私自身が「信じる」ということがよくわからないことが影響しているのかもしれません。

島本
信じることがわからない、って?

伊藤
人を信頼することと、怠慢の区別があまりつかないんです。「この人にならこんなこと言っても怒らないよね」と思うのは、信頼なのか怠慢なのか、その区別があまりつかない。『夜 は お し ま い』に、「私たちは信じるものを少しずつ間違えているのかもしれません」というくだりがありましたよね。信じるということがいまだによくわからない私にも、あのセリフはすごく生々しく迫ってきました。

書くというエゴを満たすためにテーマを盗んでいるかもしれない恐怖

伊藤
島本さんの作品を読んでいると、「小説の力ってすごい」と思わされる瞬間がたくさんあるんですが、島本さんは「小説を書きたい」というエゴを満たすために、どこかからテーマを盗み取ってるんじゃないか、と怖くなることはありませんか。

島本
テーマを盗み取っているというと?

伊藤
はい。私は小説をすごく書きたくて、書き続けるためには職業にするのが一番いいと思って新人賞に応募した人間なんですね。だからSNSで流れてくる悲劇的なニュースなどから着想を得てなにかを書きたいと思っても、「エゴを満たすために、誰かのテーマを盗み取ってるだけじゃないか」とも思えて怖くなってしまうんです。

島本
なるほど。まず大前提として、私は小説を書くことはエゴだと思っている。読んだ誰かや、身近な誰かを傷つける可能性が大いにあるし、執筆中には万能感を覚えるような瞬間だってある。だから、「エゴかもしれない」という思いは消えないものだし、その上で常に自分を疑い続けるという姿勢が、作家としては美しいのではないかと私は考えています。それに、盗み取ったものだけでは結局一冊の本にはならないとも思う。長い物語を書き通すことって、すさまじいエネルギーがいるから。たとえ入り口が興味やエゴでも、自分にとって切実なテーマだからこそ、書き通すことができる。だから、書き切ったものに関しては、もう疑わなくていいと思いますよ。書ききれないものは淘汰されていくだけなので。

伊藤
……ありがとうございます。私、これまで書いた作品では、読んだ人を救いたいとか、少しでも楽にしたいっていう側面があったんですね。でも今回の作品は、絶対に誰かを傷つけるだろうし、傷つけてもしょうがないという気持ちのほうが大きくて、書いているあいだずっと不安だったんです。『きみはだれかのどうでもいい人』というタイトルは最後に決めたのですが、みんな誰かの大切な人なんだけど、同時にみんなが誰かのどうでもいい人なんだよな、と思ったらすごくしっくりきて。誰かを傷つけるかもしれないけれども、最後までこのスタンスで行こう、という覚悟のつもりでつけたのがこのタイトルなんです。

島本
私は逆に、「だれかのどうでもいい人」と言われたことで、自意識から解放されていく気持ち良さが感じられました。自分では完璧なつもりでも、傍から見たら感情が顔に出ている20代の心理とか。そういう痛さや不完全さに救われる読者もきっと多いと思いますよ。

伊藤
ありがとうございます。そういう視点から読んでいただけるのは、すごく嬉しいです。

島本
上司と部下、同期、親子。職場を中心に描かれる女同士のさまざまな関係性が、行き過ぎそうになる寸前で、軸にしっかり戻ってくる。緊張感があるのに、距離感は絶妙な力作だと思います。伊藤さんがこれから先、どんな小説を書いていくのか、とても楽しみです。

(文・構成/阿部花恵 撮影/浅野 剛)
〈「きらら」2019年10月号掲載〉

伊藤朱里(いとう・あかり)
1986年静岡県生まれ。2015年、「変わらざる喜び」(刊行時『名前も呼べない』に改題)で第31回太宰治賞を受賞。著書に『稽古とプラリネ』『緑の花と赤い芝生』がある。

島本理生(しまもと・りお)
1983年東京都生まれ。2001年「シルエット」で第44回群像新人文学賞優秀作を受賞。03年『リトル・バイ・リトル』で第25回野間文芸新人賞、15年『Red』で第21回島清恋愛文学賞、18年『ファーストラヴ』で第159回直木賞を受賞。『ナラタージュ』など著書多数。最新作は『夜 は お し ま い』。


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伊藤朱里『きみはだれかのどうでもいい人』

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