滞米こじらせ日記~愛しきダメな隣人たち~ 桐江キミコ 第2話 星に願いを④

滞米こじらせ日記~愛しきダメな隣人たち~--02

寝たきりになってしまったジュリアの彼氏・幸太。
ジュリアの必死の看病もむなしく……。

 いろんなことでゴタゴタを起こしていくうちに、幸太のお姉さんとも、そして、お母さんとも衝突したジュリアは、次第に四面楚歌(しめんそか)の状況に陥っていった。でも、幸太の家族は、本当なら、ジュリアを煙たく思うのでなく、感謝すべきなのだ。つたない日本語でジュリアがヤイヤイ言うのは、幸太のためにほかならないのだから。

 ジュリアは、状況がどんなになっても、幸太のために監視し続け、注文し続け、文句を言い続ける。おかげで、別の患者の薬が幸太に渡されるのを二度も阻止することができたと言う。

 初めてお見舞いに行ったとき、外から見ると、一見したところ結婚式場かと見まがうような病院に幸太はいた。でも、豪華なのは外だけで、中はだだっ広くて、とっつきの悪い、閑散とした病院だった。

 幸太は、ほかに寝たきりのお年寄りが3人いる部屋にいた。体が大きいから、両足がベッドからはみ出ている。幸太は、仰向(あおむ)けになって、ヒューヒュー息をしていた。

 挨拶すると、幸太はわかるかわからない程度うなずいた。「お久しぶり」と言って、容態を訊(き)いたが、もちろん返事はない。何を言ったらいいのかよくわからなかったから、思い出話を幾つかした。幸太と会ったことは数回しかないから、思い出話といっても限りがあるし、幸太はうなずくことさえできないから、3人して屋形船の中で爆睡したことなんか言ってひとりで笑うのも妙で、話が尽きてしまうと、ますます何を言ったらいいのかわからなくなった。

 ジュリアは、といえば、せっせと幸太の世話をし続ける。姿が消えたかと思うと、ナース・ステーションから氷をもらってきて、スプーンを氷で冷やして、幸太の口に入れた。こうやって口の中を冷やしてやると、脳の神経が活性化されるのよ、とジュリアは言った。

 それから、ジュリアは、ゼリーをスプーンに少しすくうと、幸太をまっすぐ見て、「シュウチュウ」と言った。誤飲しないよう、幸太に心構えをさせると、ジュリアは慣れた手つきでゼリーを幸太の口にすべり込ませてやり、ちゃんとのみ込むのを見届けてから、またゼリーを少しすくって、「シュウチュウ」と言って口に入れてやった。

 小さなカップ入りゼリーを3分の2ほど食べさせるのに、とんでもなく長い時間がかかった。幸太がわたしにはわからない目つきでもう充分だと示すと、ジュリアは、口の中を洗ってやり、「幸太はたくさん食べたでしょう、彼を誇りに思うわ」と言った。今日は少し食べた、今日は少し外へ出て行く気になった、今日は新聞を読んだ、だから、I’m proud of him.、こんな発言をするとき、ジュリアは、やっぱりアメリカ人なのだなあと思う。そしてまた、メソメソ泣くこともなく、さばさばした感じで冗談を飛ばしながら幸太の世話をするのを見て、ほんとにアメリカ人だなあと思う。

 病室にいたのは、たぶん3時間ぐらいだったと思う、でも、3時間は長いようで、短かかった。病室で流れている時間は、加速度がつくみたいだった。「さようなら、また来ます。よくなるように祈っています。がんばってね」と、情けないことに、ありきたりのことばしか思いつかなかったから、そのありきたりのことばをかけて、幸太の、計器の付いていない方の左手を握ってから別れた。

 卵を1ダースも食べて、脂身の多い肉をもりもり食べて、あまいものも躊躇(ちゅうちょ)することもなく食べて、運動もせずに、血圧もコレステロールも気に留めないで、好き勝手にしていた幸太だった。ちょっとした油断が、彼の一生、ジュリアの一生、そして2人の一生を台無しにしてしまった。ジュリアの言うように、幸太が処方された薬をきちんとのんでさえいれば、今ごろ彼は普通に歩いて普通にごはんを食べて普通にしゃべって、そんな普通の生活を特別に思うこともなく普通と取って、普通に暮らしていたことだろう。

「薬をのもうとしない彼に、何度も何度も薬をのんでって懇願したのよ。だけど、彼はなぜかのもうとしなかった。おかげで彼はわたしたち2人の生活をも奪ってしまったのよ。本当にわたしのことを愛していたなら、もっと自分の健康に注意して、わたしの言うことを聞いて薬をのんでいてくれたはずだわよ、ね、そうでしょう、あなたもそう思うでしょう」

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桐江キミコ(きりえ・きみこ)

米国ニューヨーク在住。上智大学卒業後、イエール大学・コロンビア大学の各大学院で学ぶ。著書に、小説集『お月さん』(小学館文庫)、エッセイ集『おしりのまつげ』(リトルモア)などがある。現在は、百年前に北米に移民した親戚と出会ったことから、日系人の本を執筆中。

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