滞米こじらせ日記~愛しきダメな隣人たち~ 桐江キミコ 特別編(小説) 三郎さんのトリロジー⑥

滞米こじらせ日記~愛しきダメな隣人たち~ 桐江キミコ
三郎さんは、長年働いた高柳商店を辞め、
私と同じ職場で働き始めた。
しかし1ヶ月が経つころ、私は人事に呼ばれて…。

 こうして、三郎さんは、1月で長年働いた高柳商店をやめた。少々退職金をもらい、社長からは高柳の記念品をもらい、最後の日には、仕出し屋の花菱(はなびし)の幕の内弁当でねぎらってもらったらしい。

 2月の頭、北風がビュンビュン吹く日、手をくねくねとこねくり回しながら、三郎さんは、ホームセンターにやって来た。朝礼で支店長から社員全員に紹介され、人事の課長補佐に店内を案内してもらい、それから三郎さんは、配属先の造園コーナーに連れていかれた。

 その日は特売日で特別に忙しく、三郎さんがお昼休みにおずおずと近づいてきたとき、「ごめん、三郎さん、いま忙しいから」と言うしかなかった。お昼の休憩時間は、人によって違うのだということもろくに説明できなかった。実は、そのとき、三郎さんは、持ってきた弁当をどこで食べたらいいのか、訊きたかったらしい。

 三郎さんは仕方なくホームセンターの苗売り場の隅っこのベンチでお弁当を開いたので、上司に注意され、従業員用の休憩コーナーへと移った。休憩コーナーとはいっても、事務所や従業員用のトイレや着替え室のある階の廊下にデコラのテーブルとパイプ椅子を置き、ついたてで囲んだだけの場所で、主に喫煙所として使われているところだった。ホームセンターで働いている人は、外へ食べに行くか、近場の人は家に戻るかしていた。お弁当を持ってきた三郎さんは、休憩コーナーで、ひとり、タバコの煙にまかれながら、もそもそ食べた。

 一日が終わりかけたとき、時間を見つけて、三郎さんにどうだったか聞こうと声をかけると、三郎さんは手にした帽子をこねくり回して、へなっと笑った。それで、てっきりうまくいったんだろうと勝手に解釈していたのだけれど、実際は、三郎さんは1日目からいろいろと壁にぶつかっていたのだった。三郎さんの状況がわかるのに、さほど時間はかからなかった。

 三郎さんは、かなり当惑していたようだった。周囲が忙しく渦巻いている中で、どうふるまっていいのかよくわからず、時々、所在なさにあたりをうろついていることもあったし、途方に暮れたように階段に腰かけていることもあった。ホームセンターでは、みんな忙しくてキリキリ舞いしていたから、三郎さんにかまっている暇なんかなかった。担当者だって仕事があったから、つきっきりで教えることはできなかった。高柳商店ではせっせとこまめに立ち回っていた三郎さんも、ホームセンターでは青菜に塩だった。

 1週間もたつと、三郎さんが上司に𠮟られているところをよく見かけるようになった。三郎さんは何を怒られているのかもよくわからないようで、それがよけい上司の神経を逆なでしたようだ。三郎さんが気にはなったけれど、自分のことで手いっぱいで、ろくに話しかける余裕さえなかった。

 お昼になると、三郎さんは、雨の日は休憩コーナーで、雨でない日は近所の児童公園で、持ってきたブック型の弁当箱を開いた。公園には砂場とすべり台とブランコきりしかなく、空っ風が吹き荒れるなか、三郎さんは、ベンチに座ってもそもそと食べた。

 2月も半ばになると、人事に呼ばれた。行ってみると、事務所内の隅にある接待コーナーでは、人事課長と造園担当の主任と三郎さんの担当者が座っていた。悪い予感がした。

 腰を下ろすや、課長は、残念極まりないが、三郎さんはここでは雇えない、と言う。

 もう少し長い目で見てくださいませんか、と懇願したけれど、四つ目垣ひとつ作ることもできないし、石組みの仕方も何も知らない、造園知識がまったくないもんに造園なんかまかせられん、と主任が口をはさみ、使いモノにならないどころか、足手まといだ、いてもらっていいことはひとつもない、と担当者が言った。

 三郎さんは、限られた状況の、限られた条件下でのみ使える人材だったのだ。

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桐江キミコ(きりえ・きみこ)

米国ニューヨーク在住。上智大学卒業後、イエール大学・コロンビア大学の各大学院で学ぶ。著書に、小説集『お月さん』(小学館文庫)、エッセイ集『おしりのまつげ』(リトルモア)などがある。現在は、百年前に北米に移民した親戚と出会ったことから、日系人の本を執筆中。