◇長編小説◇日明 恩「水際守護神S」──第1話 Welcome to Japan〈後編〉

◇長編小説◇日明 恩「水際守護神S」──第1話 Welcome to Japan〈後編〉

空港の税関ブースでは、旅具検査官が渡航客の荷物に目を光らせていた。

 

 検査を終えた渡航客は次々と出口から出て行った。ブースに連なる列もぐんぐん減っていく。先ほどのようなケースを除けば、一人当たりに掛ける時間は三十秒にも満たない。中には十秒も掛けずに検査を終える場合もある。

「けっこうなスピードですね」

「次の到着は十時四十五分のソウル便と台北便、そのあと五十五分のミュンヘン便が続きます。飛行機の機種ごとに搭乗者数は違いますが、最低でも百人弱、最高は三百人を超えます。間を取って百五十人で計算すると、十時台だけで六百人入国することになります」

 六十分間で六百人検査する。単純計算では一人当たり六秒しか使えない。

「時間帯ごとに変動はありますが、これが二十四時間三百六十五日、ずっと続く」

 一人一人の検査に時間を掛けていては、空港としての機能が破綻してしまうだろう。槌田(つちだ)にも容易に想像出来た。

「旅具検査官は三班一時間交替で、すべての訪日客を検査しています」

 集中力を持続させるためには当然のことだと槌田は思う。

「今、日本が承認している国数は百九十五カ国。そのすべてに法律と国境があって独立し、自国を守っている。残念ですが、すべての国同士の関係が良好というわけではありません。しかし良い関係性を保っている機関が二つあります。その一つが税関です」

「世界税関機構の加入国同士が出国と入国のダブルチェックで双方の国益を守る」

 初日に習った内容が繰り返されそうになって、あわてて槌田は口を挟む。

 税関の仕事は、大きく分けると関税及び内国消費税等の徴収、輸出入貨物の通関、密輸の取締り、保税地域の管理の四つで、経済と物理的な危険性から国を守っている。ただし世界中の国がそれぞれの法律の下に自己流でやっていたら、貿易も渡航もままならない。

 各国の国際協力の推進により、国際貿易の発展に貢献することを目的として設立されたのが世界税関機構WCOだ。現在加入している百八十二カ国は、税関制度の調和・統一及び税関行政に関する国際協力を行っている。

「そのとおりです」

 英(はなぶさ)がにこやかに応えた。

 客は出国前に検査を受け、申告する。危険性と違法性がないと確認したうえで出国を認められた客に、入国時に再度検査をすることで安全性を確実にしている。

「この短さで検査が可能なのは世界の税関はもとより、エアライン各社も協力体制をとっているからこそです」

 たとえ出国検査をすり抜けた場合でも、エアラインのキャビンアテンダントが、様子のおかしな客がいれば報告してくれる。

「食事のサービスを断り続けるとかですね」

 薬物を飲むなどして体内に隠し持った密輸犯は、排出を避けるために飲食を控える。だから機内サービスの飲食を断り続ける客は要注意となる。

「試合前のプロボクサーだったこともありましたけれど」

 計量前ならば飲食できないのも仕方ない。苦笑しつつ槌田は言う。

「それはまた、レアケースというのか」

「まぁ、きちんと調べて問題がなければよいので。あとは荷物を必要以上に気にする客も」

 何かしら気にし続けなくてはならない物が入っているからだろう。その場合も、やはり連絡案件となる。

 出国時の検査に加えて、移動中もエアラインの職員が観察している。これだけの協力体制があれば、確かに一人当たりの入国時の検査が短時間で済むのも分かる。とはいえ違反を隠して平然と入国しようとした者を見たばかりなだけに、やはり一人に掛ける時間が短いと槌田は感じる。

「あれは典型的ですね」

 英の視線の先に六番ブースに列んでいる女性客がいた。四十代くらいだろうか。スーツケースの他に、ボストンバッグが数個積まれたカート二台を免税ブースに向かって押している。

「違法性のないものならよいのですが」

 女性が検査台の上にボストンバッグを載せた。さして重そうではない。許可を取った旅具検査官がボストンバッグのチャックを開ける。つかみ出されたのはビニール袋に入った白い塊だ。遠目から見ると違法薬物の塊にも見える。槌田は一歩踏み出した。だが英の「重さからして違います」の声で、その場に止まる。

 検査官がビニール袋を開けて中身を引き出す。無理矢理詰め込んでいたらしく、空間を得たとたんに、白い物が台の上一杯に大きく広がった。

「なんですかね。あれ」

 首を伸ばして槌田は見る。検査官が二つ目のボストンバッグを開けた。今度は目にも鮮やかな青い塊だ。ビニール袋から出すと、女性客が手に取り自分の身体に当てて見せた。どうやらスカートのようだ。

「チマチョゴリですね。さっきのあの白い塊はパニエでしょう」

 耳慣れない言葉に眉を寄せた槌田に英が、「スカートを膨らませるためのものです。ウェディングドレスなどで使っているのと同じです」と、説明してくれる。ウェディングドレスと聞いて、頭の中に彩(あや)の花嫁姿が浮かんだ。ふんわりと広がったドレスのせいで、腕を組むのも大変だった。「踏まないで」と、叱る彩の笑顔が輝いて見えた。

「嵩張るから、大荷物になっても仕方ないですね」

 英の声に槌田は現実に引き戻される。

 検査官がすべてのボストンバッグを開けた。女性が持ち込んだのは四着分のチマチョゴリのセットだった。レシートの提示を求められたのだろう、すぐさま女性が差し出した。ブース内の男性と女性の検査官はじっくりと確認したのち、レシートを返した。どうやら違法性はないらしい。ボストンバッグにしまい直す手伝いをしようと、女性検査官がパニエを畳み直す。だが、どうがんばってもビニール袋に入らない。女性客は乱暴にパニエを奪い取ると、台の上に乗るようにして体重を掛けて畳む。強烈な言い方からして怒っているらしい。男性検査官がビニール袋の口を開けてパニエを詰め込む手伝いをする。その間に女性検査官がチマを畳んでビニール袋にしまう。あと三着残っているのに気づいた検査官が駆け寄って来た。四人がかりで元通りにしようと悪戦苦闘している間も、女性客は強い口調でしゃべり続けている。どうにかすべて元通りに納め終えた。女性客がカートを押して出口へと向かう。その顔は明らかにまだ怒りが収まっていない。

「きちんと申告したのに疑われて、荷物を開けられたことに怒る人ってけっこういるんですよ」

 少し顔を顰めて英が言う。

 検査は義務なのだから、怒るのはお門違いだ。けれど槌田はよく似た状況を知っていた。「職務質問でもよくあります」

 警察官は、すべての人に声を掛けてはいない。掛けるのは何か理由──疑惑を持ったからだ。何一つ違法なことはしていないのに疑られて、気持ち良いはずはない。

「一度しくじったことがあって」

 所轄の組織犯罪対策課で車移動をしていたときのことだ。エアロパーツ満載の車高の低いセルシオがかなり強引に追い越してきた。槌田と同年代に見える運転手の男の表情は引きつっていて、視線もきょろきょろと定まっていない。アナウンスをして停めさせようとする前に、車はコンビニエンスストアの駐車場に入った。後を追って車を停めていると、男が下車して店へと歩き出す。わずかに身震いもしている。これは薬物だと思い、槌田も車から降りて男に駆け寄った。警察バッジを取り出し、「すみません、警察です」と言い終える前に、「トイレに行きたいんだよ」と男が小声で言った。

 男の様子と形相からおいそれと信じるわけにはいかず質問をしようとしたが、「付いて来ていいから」と怒鳴られた。証拠物を捨てられると思い、腕をつかんで引き留めた。そのとき悲劇は起こった。漂ってきた臭いに槌田は自分の非を認めた。

「幸いなことに被害は下着止まりだったので、私費で下着を弁償しました」

 着替えを済ませた男は激怒した。車は男の兄のものだった。男自身は今まで法を破ったことは一度もなかった。交通違反の減点すらだ。半べそをかきながら怒りを叩き付けてくる男を前に、槌田はひたすら謝罪し頭を垂れ続けた。ひとしきり怒鳴ったのちに男は落ち着きを取り戻した。最終的には「仕事なんだし、仕方ない」と許してくれたのだ。

「それはラッキーでしたね」

「ええ、理解のある人で、本当に良かったです」

 署にクレームを入れられていたら、本庁に異動にはならなかっただろうし、こうして税関に出向することもなかっただろう。自分は幸運だったと槌田は自覚していた。

「世界中の人達が、理解のある人だと良いのですが」

 うらやましそうな英の言い方に、槌田は税関の仕事の難しさを察する。法の番人の職への理解は日本人同士でも個人差がある。まして法も習慣も異なる外国人ともなれば、考え方が違って当然だ。職務を全うしているだけなのに、敵意や怒りをぶつけられることもあるに違いない。警察の状況と似た部分が多いだけに、同情も相まって本音が漏れ出る。

「検査自体、立ち仕事の肉体労働だし、違反者を見つけ出すために集中しているから、精神的にも疲れる。そこにきて見当違いの怒りをぶつけられるんじゃ、さぞかし疲弊しますよね」

「気持ちの切り替えは早くなりますから」

 英が軽やかに答えた。

 取り扱う事件の性質上、逮捕して終わりとはならない状態が普通だった槌田からすると、淡泊であるようにも思える。けれど訪日客は途絶えない。起きたことを引きずっていては旅具検査官は仕事にならない。それが現実だ。

 税関エリア内に残る客は十人以下になっていた。旅具検査官達の手際の良さに圧倒されていると、次の便の到着アナウンスが聞こえる。数分後には、また百人を超える客が訪れる。その一人一人に違法性がないかを検査していくのだ。

「すごいな」

 正直な感想が漏れた。

 地域課員や自動車警ら隊員の中には職質の天才とよばれる警察官がいる。彼らはパトロール中に目にした相手におかしな点があると一瞬で気づく。旅具検査官がしているのはそれと同じだ。常時、大量に押し寄せるすべての客に目を向け、違和感を見つけ出さなくてはならない。

「ええ。在籍していた私が言うのは手前みそですが、すごいと思います」

 ソウル便の最後の客の検査が終わった。税関エリアには今は誰もいない。天井の高い広大な空間はがらんとしていて、アナウンスの声がやたらと響いている。

「来ましたね」

 入国審査エリアから人のざわめきが聞こえてきた。

「そういえば、もう一つって何ですか?」

 さきほど英は世界で良い関係性を保っている機関が二つあると言っていた。だが座学の際に聞いた覚えはない。

「あれ? お伝えしませんでしたっけ?」

 頷いて返すと、「雑談になるので省いてましたか、すみません。気象関係です」と英が答えた。自然現象は人の力ではどうにもならない。だからこそ情報を共有し、世界が一丸となって備える必要性がある。

 ふと、警察はどうかと考える。日本では事件の犯人が日本国籍の場合や政治犯の場合など例外を除き、原則相手国に引き渡すとされており、犯罪人引き渡し条約を結んでいるのはアメリカ合衆国と韓国の二カ国だけだ。日本が島国で出入国の検査が厳しいからこそだろうが、国内で事件を起こした犯罪者がこの二カ国以外に逃亡した場合、原則として相手国からの引き渡しはなされない。本人が帰国するか、条約を締結しない限りはどうにも出来ないのだ。

 警察も税関もともに国を守る組織ではあるが、組織としての背景はかなり違うなと槌田は改めて思う。

「そろそろ、税関以外の関係各位に挨拶に行きましょう」

 促された槌田は、英の後を追ってCIQ棟へと歩き出した。

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日明 恩(たちもり・めぐみ)

神奈川県生まれ。日本女子大学卒業。2002年『それでも、警官は微笑う』で第25回メフィスト賞を受賞しデビュー。他の著書に『そして、警官は奔る』『埋み火  Fire’s Out』『ギフト』『ロード&ゴー』『優しい水』『ゆえに、警官は見護る』など。

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