◇長編小説◇日明 恩「水際守護神S」──第1話 Welcome to Japan〈前編〉

◇長編小説◇日明 恩「水際守護神S」──第1話 Welcome to Japan〈前編〉
警視庁から東京税関に出向した槌田。羽田空港での研修が始まった。


 第1話 Welcome to Japan

 

 電車が地下に入って視界が暗くなった。車窓から見えていた景色が消え、かわりに背広の男が映し出される。体格は悪くない。顔立ちもそこそこ整っている方だろう。けれど覇気は感じられない。これが今の自分かと槌田将人(つちだまさと)はぼんやりと思う。

 電車が次の駅に近づき、差し込んできた灯りで姿が消えた。天空橋駅に電車が入って駅全体に貼られた鮮やかなブルーのタイルに思わず槌田は目を見張る。だが快特列車は駅には止まらず、すぐに通過してしまった。再びトンネルになり、また視界が暗くなる。壁に取り付けられた白いライトが流星のように流れていく。まるで遊園地のアトラクションの入り口みたいだと思った槌田の脳内で、昨日の楽しい記憶が甦る。

 八歳になって急に背が伸び出した娘の結実(ゆみ)の弾けるような笑い声と笑顔。つながれた手の大きさと感触。頭の中に結実の声が聞こえる。

「これくらいだと、パパって最高」

 別れ際の言葉だ。意味が分からず、すぐには応じられなかった。表情から察したらしく結実が続ける。

「毎日一緒に住んでてもほとんど会えなかったし、約束も守ってくれなかったけど、今みたいな感じだと最高にいいパパだってこと。次は二週間後の日曜だよね、じゃあ、またね!」

 笑顔でそう言うと、結実はマンションに入っていった。完全に結実の姿が消えたあとも自動ドアを前に槌田はしばらく動けなかった。

 何がいけなかったのだろうかと自問自答するまでもなく、答えは分かっていた。誕生日、ピアノの発表会、幼稚園の運動会や演劇発表会、最初から最後までいたのは三度だけだ。だが警察官という職に就いている都合上、土曜日曜や祝日も出勤になるのは妻の彩(あや)も承知していたはずだ。

「仕方ないと思っていたのよ。でもね」

 責めるのでもなく疲れ果ててもおらず、申し訳なさそうな表情で言う彩の姿が頭の中に浮かんだ。

 交替制の交番勤務から毎日勤務の組織犯罪対策課に異動になって、家族と一緒に過ごす時間が増えるかと思ったら、かえって減った。将人が警察官という仕事をきちんとしていること、評価を得て出世したことは私も結実も嬉しいし誇らしい。でも、今まで以上に家にいないし、約束も守ってくれなくなった。いるときは家事もしてくれるけれど、いかんせん、いない。私もフルタイムで働いているから、一緒に食事をするどころか、顔を合わせることもないまま一日が終わることも珍しくない。この状態が夫婦や家族だと思えない。私が仕事を辞めたとして、あなたの収入で暮らしてはいける。でも、あなたが家にいないのには変わりはない。約束を破られた結実を慰め続けるのは辛い──。

「このままだと、将人を嫌いになりそうなの。だからごめんなさい、離婚して下さい」

 言い終えると彩は深々と頭を下げた。

 彩とは高校からの同級生だ。違う大学に進学し、自分は警察官に、彩は大手証券会社に就職しても交際は続き、二十八歳で結婚した。それだけに彩の性格は分かっている。倫理観に長けて責任感が強く堅実。そして一度決めたことはやり通す努力をする。それでも無理だと気づいたら、早々に止めて進路変更をする。つまり、この離婚はすでに彩には決定事項なのだ。

 相談すらなく離婚を決めたことに憤りを感じてしかるべきだろう。だが槌田には出来なかった。困っている人を、それも原因が自分にもある場合は、絶対に救わなくてはならない。それが自分の信念であり、そうし続けてきたからだ。自分が彩と結実を困らせ苦しめているのは事実だ。二人を幸せにするためには、自分が変わらなくてはならない。

 警察官の仕事は犯罪を未然に防ぎ、起これば犯人を逮捕する。一般的にはそこまでだ。けれど逮捕してそれで終わりにならない場合がある。ことに槌田が在籍する組織犯罪対策課は情報源となった人物の安全を確保し続けることや、逮捕者の家族が生活していくために尽力することがある。夫が逮捕され、暴力団の身内だと周知されたことで賃貸物件から退去しろと言われた、銀行から口座を閉じると通告されたなど、犯人逮捕後に相談を持ちかけられることは多い。後者の場合、預金没収にはならない。ただし子供の学費など、現金払いを受け付けない場合もある。相手先に同行して直談判に行くことも珍しくない。

 犯人は法を破ったから逮捕された。だとしても家族に罪はない。困窮していると相談を受ければ、槌田は手を差し出した。そんな槌田の人となりと信頼は口伝され、槌田を名指しする協力者が現れ出した。それがさらなる事件解決に繋がった。逮捕した数だけ、その家族の数も増える。もちろん事件は日々起こる。新たな事件の解決に勤しみ、過去の犯人の家族からの相談にも乗る。一日は二十四時間しかない。何をどうしてもすべてをこなす時間の余裕はなかった。もちろん彩と結実には申し訳ないと思っていた。しかし子供を抱えて途方に暮れる母親や、年老いた親などの相談者を前に、何もしないではいられなかった。

 部署が替われば、と言い出す前に「警察官はあなたの子供の頃からの夢でしょ? 私も結実も警察官として一生懸命働いているあなたが大好き。私達のために意にそぐわないことをさせて後悔させたくない。私達を悪者にしないで」と彩に言われてしまった。もはやなすすべはなかった。そして離婚は成立した。

 独りになった寂しさから、槌田はそれまで以上に仕事に打ち込んだ。何人もの犯人逮捕に尽力し、表彰も二度された。その功績が評価されて警部補に昇格し、昨年の九月には本庁の組織犯罪対策部組織犯罪対策第五課薬物捜査第3係へと異動となった。大卒Ⅰ類採用の三十九歳としてはそこそこ順当な出世だ。本庁勤務となって槌田は一層職務に集中した。しかしあと三カ月で一年になろうとした六月の半ば、突然辞令が下った。

「槌田将人、七月六日付で東京税関調査部への出向を命ず」

 海上保安庁、法務省東京入国管理局、財務省東京税関、厚労省関東信越厚生局麻薬取締部、そして警視庁の五カ所は職務として重なっている部分が多いことから人事交流として職員の二年間の相互出向を行っている。その白羽の矢が立ったのだ。

 あのときも、昨日と同じくすぐに応じることが出来なかったなと、槌田は思い出す。

 異動して以来、大きな失態は何一つしていない。それどころか、五カ月に亘る捜査の結果、覚せい剤所持及び使用容疑で知名度の高いミュージシャンの逮捕に至った件に関しては、ミュージシャンの妻から情報を引き出したのは槌田だった。表彰は係としてされたが、課長直々に槌田個人の力が大きかったと係員全員の前で言われた。皆が拍手して同意してくれたときは嬉しかった。これで自分も本当の意味で係の一員になれたと実感出来た。なのにものの一年も経たずに異動。それも警察内での異動ならまだしも、外部組織への出向を命じられた。

 東京税関は仕事柄、まったく知らなくはない。薬物にしても銃器にしても、どちらもほとんどが海外から国内に入る、すなわち輸入される。それらに最初に携わるのは税関だ。船荷や航空便のコンテナや国際郵便、個人の荷物等に隠して持ち込まれた銃器や薬物を最初に発見するのは税関なのだ。それだけに関係性は深い。とはいえ、自分が出向するとなると話は別だ。

 なぜ自分が? 出向後のキャリアは? と、頭の中に様々な不安が飛び交った。だとしても断ることなど出来ない。断ったが最後、本当にこの先のキャリアは閉ざされる。それが警視庁だということは分かっていた。

「そう悪いことばかりではない。まず仕事内容は、ほとんど一緒だ」と課長は言った。

 東京税関調査部検察第7部門統括審理官、それが槌田に用意されたポジションだった。税関で摘発された麻薬や覚醒剤をはじめとする不正薬物やコピー商品等の密輸事件、関税等の脱税事件の犯則調査を担っている。関税法に基づき、事件の真相を明確にして嫌疑者を特定し、最終的に嫌疑者を処分したり検察官に告発する。調査中には張り込みや尾行や嫌疑者の取調べ、令状請求のうえでの関係場所の捜索や証拠品の押収等も行う。謂わば、基本的には警視庁時代の現職と内容は変わらない──。

 呆然と説明を聞く槌田に課長は続ける。

「難点もある。給料はちょっと下がる」

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日明 恩(たちもり・めぐみ)

神奈川県生まれ。日本女子大学卒業。2002年『それでも、警官は微笑う』で第25回メフィスト賞を受賞しデビュー。他の著書に『そして、警官は奔る』『埋み火  Fire's Out』『ギフト』『ロード&ゴー』『優しい水』『ゆえに、警官は見護る』など。