◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第81回

◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第81回
第五章──狼煙 06
「被疑者は前に出てください」裁判官に促された増山に志鶴は意見書を手渡す。

「──以上ですか」裁判官が増山に言った。

「あ、お──お願いです。お、俺──やってません。助けてください……!」

 文子が「うううっ」と声を漏らし、眼鏡を押し上げてハンカチを目に当てた。

「増山さん」志鶴は増山に声をかけ、視線を捉えると、うなずきかけた。

 増山は、我に返ったように志鶴を見てから後ろを振り向き、自分をにらんでいる二人の留置官を見て、恐怖におののいた。志鶴は二人の留置官に歩み寄った。二人は何事かという表情で志鶴を見た。志鶴は二人を見返した。

「これ以上増山さんに暴力を振るったら、氏名階級を突き止めたうえでしかるべき手段に訴えます。覚悟してください」声を低めて告げた。

 二人は一瞬ぎょっとしたような顔になってから、互いに顔を見合わせ、いまいましげな表情を浮かべ、志鶴を無視するように視線をそらした。

「弁護人、不規則発言を慎むように」裁判官が言った。「被疑者は席に戻ってください」

 志鶴は振り向き、増山にまたうなずきかけた。

 増山は目を伏せ、おずおずと席に戻って座った。留置官が荒々しく手錠腰縄をつけた。

「最後に、弁護人が意見陳述します」志鶴は裁判官に言い、証言台の前に進んだ。

「どうぞ」裁判官が言った。

「先ほど増山さんご本人が陳述されたとおり、増山さんに対する逮捕・勾留は完全に不当なものです。増山さんはいわれなき嫌疑をかけられ、参考人としての事情聴取の場で複数の警察官から暴言を吐かれ、威迫され、無実であるにもかかわらず自分がやったと認めてしまった。増山さんは、弁護人の助言を受けて一度は黙秘に成功しました。ですが、代用監獄と呼ばれる留置場に勾留され、二十四時間警察に生殺与奪を握られた逃げ場のない状況で圧力をかけられ、黙秘を続けられなくなってまた不本意な自白を強要されてしまった。典型的な冤罪(えんざい)事件の構造です。一度嫌疑をかけた人を犯人だと思い込む警察官や検察官にも問題はあります。が、この冤罪事件の最大の責任は、検察官からの勾留の請求に対し、ろくに事件の精査もしないまま、お金を入れたら商品を出す自動販売機同然に、それを認める勾留状を発付した裁判官にあります。にもかかわらず、その本人は、一人の人間の運命がかかったこの法廷に出席せず、代わりの人間を送り込んで他人事(ひとごと)を決め込んでいる。こんなことが許されますか?」

 目の前の裁判官は無表情を崩さなかった。

「勾留理由の求釈明にも、テンプレートみたいな言葉を繰り返すだけ。誠実さのかけらも感じられません。日本から人質司法がなくならないのは、あなた方裁判官の傲慢と怠惰が原因です。そもそも私はあなたが一件記録にちゃんと目を通したのかどうかさえ疑問に思っています。これ以上不当な身体拘束を続けて増山さんの人権を侵害することは許されません。即刻増山さんの身柄を解放するよう求めます!」

「以上ですか?」裁判官の声は平板だった。

「以上です」

「以上で、本件勾留理由開示の手続を終了します」裁判官は事務的に告げ、立ち上がって一礼した。

 傍聴人も立ち上がり、ほとんどが一礼した。裁判官が控室に戻り、傍聴人たちが出口に並ぶ。留置官に促され、増山が立ち上がった。留置官に挟まれ事務室へ向かう増山に、文子が「淳彦!」と呼ばわった。増山が足を止め、文子を見た。何か言いたげだったが、すぐ視線を落とした。留置官が「立ち止まるな」と命じ、増山が歩き出した。刑場へ連行される死刑囚のようだった。

 志鶴のスーツのポケットの中でスマホが鳴った。取り出した。チャットアプリにメッセージの着信。事務所のパラリーガルである森元逸美(もりもといつみ)からだ──『東京地裁刑事部から連絡。増山さんの勾留場所に対する準抗告、通ったよ! 明日移送するって』。

 志鶴は顔を上げ、事務室に入ろうとする増山に向かって、「増山さん! 明日、拘置所行き決定です!」と叫んだ。戸口を抜ける直前、はっとした増山の顔が見え、戸口の向こうへ消えた。

(つづく)
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里見 蘭(さとみ・らん)

1969年東京都生まれ。早稲田大学卒業。2004年、『獣のごとくひそやかに』で小説家デビュー。08年『彼女の知らない彼女』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞。主な著書は、『さよなら、ベイビー』『ミリオンセラーガール』『ギャラリスト』『大神兄弟探偵社』『古書カフェすみれ屋と本のソムリエ』『天才詐欺師・夏目恭輔の善行日和』など。