◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第79回

◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第79回
第五章──狼煙 04
弁護人席に座る志鶴ら三人の弁護団と文子。法廷に現れた裁判官は──。

「申立てを却下します。勾留理由開示の手続は裁判ではありません。福岡高裁昭和34年(く)41号・決定──〝勾留理由開示手続は勾留されている被告人、被疑者又はその特定の関係人等に対し該勾留の理由を告知するだけの手続であつて、もとより被告事件又は被疑事件につき裁判をするための手続でないことは憲法第三四条後段刑事訴訟法第八四条の文理に徴し極めて明らかである。従つて勾留理由開示手続においては不公平な裁判をする虞があることを理由として裁判官を忌避することは不適法にして許されるべきものでない。〟弁護人は着席するように」

 志鶴は都築を見た。都築はうなずいた。志鶴は席に着いた。

 カメラマンたちの退廷後、次に事務室のドアが開いたとき、そこから出てきたのは、手錠腰縄を打たれ、二人の警察官に挟まれた増山淳彦だった。志鶴が差し入れた紺色のスーツと白いシャツを着ている。ひゅっ、と、文子の呼吸の音が聞こえた。彼女は手を口に当て、増山を見ていた。傍聴人席で、マスコミに雇われた法廷画家と思われる数人が、スケッチブックと増山を交互に見て素早く手を動かした。

 増山はおどおどした様子で傍聴席に目を向けてから、こちらを見た。文子の姿を認め、目を見開いた。口が開き、足が止まった。警察官に促されまた歩き出したが、目は文子に向けられたままだった。警察官に挟まれたまま、傍聴人席の前の柵を背にした椅子に座った。文子は増山に向かって何度かうなずきかけた。増山の顔が歪(ゆが)んだ。

 裁判官が開廷を宣言し、「被疑者は前に出てください」と言った。警察官が増山の手錠腰縄を解き、増山が立ち上がって証言台の前に進んだ。裁判官が氏名と生年月日、本籍と現住所を増山に訊ねる人定質問をし、増山が答えた。

「被疑者に対する殺人及び死体遺棄被疑事件について、弁護人から勾留理由開示の請求がありましたので、理由を開示します。本件の被疑事実に関しては、一件記録により、被疑者には罪を犯したと疑うに足りる相当の嫌疑が認められ、また、逃亡のおそれ、罪証隠滅のおそれがあると認められる。以上が勾留理由です」

 一件記録とは、裁判所に係属したある事件についての記録をまとめたもの。裁判官の言葉は紋切り型そのものだった。

「では、引き続き意見陳述に入ります」裁判官が言った。

 志鶴は立ち上がった。

「まず弁護人より裁判官に求釈明します。先ほどの答えでは増山さんを勾留する具体的な理由がわかりません。勾留すると判断するに至った具体的な理由を教えてください」

「具体的な内容については、証拠の内容に及ぶので答えられません。これは勾留理由開示であって証拠開示ではありません。答える義務はありません」

 これも、勾留理由開示法廷での裁判官の決まり文句だ。だが勾留理由を追及することはここでの本当の目的ではない。志鶴は文子を見た。

「大丈夫ですか、お母さん?」

 文子が志鶴を見返した。「はい」

「勾留理由開示請求の申立人である増山文子さんが意見を陳述します」志鶴は裁判官に告げ、席に着いた。

 増山がびっくりしたような顔をしている。勾留理由開示は、弁護人のみならず、配偶者や直系の親族でも申立人となって請求することが可能だ。そして、請求者は法廷で意見を述べることができる。志鶴は増山文子を申立人として勾留理由開示請求を行っていた。増山の前で意見陳述してもらうためだ。だがそのことは増山にはあえて隠していた。

 文子は抱えていたバッグを開け、中から何かを取り出した。青いウィッグだ。驚く志鶴の前でそれをかぶると、コートを脱いで立ち上がった。

 傍聴席にどよめきが生じた。

(つづく)
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里見 蘭(さとみ・らん)

1969年東京都生まれ。早稲田大学卒業。2004年、『獣のごとくひそやかに』で小説家デビュー。08年『彼女の知らない彼女』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞。主な著書は、『さよなら、ベイビー』『ミリオンセラーガール』『ギャラリスト』『大神兄弟探偵社』『古書カフェすみれ屋と本のソムリエ』『天才詐欺師・夏目恭輔の善行日和』など。