◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第47回

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第三章──物証 02
「意外と簡単じゃん、黙秘」増山の言葉に、志鶴はかえって不安を覚える。

 

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 足立南署へ着いたのは午後四時半。別の被留置者の家族との接見が終わるのを待ったため、志鶴が接見室へ入ったのは午後五時を回ったところだった。

 アクリル板の向こうでドアが開き、上下スエット姿の増山が入ってきた。ドアの前で足を止め、志鶴を見た。背後でドアが閉められると、ゆっくりと、いつもより大股にこちらに近づいてきた。

「こんにちは」

 声をかけると増山は軽く顎を突き出して応じ、パイプ椅子にのけぞるように座った。腹の上で両手を組み、顔を斜めに引いて志鶴の首の辺りを見た。頰が紅潮し、口がうっすら開いて不揃(ふぞろ)いな前歯が覗(のぞ)く。

 昨日、裁判所の接見室で別れたときとはだいぶ様子が違う。これまでに見たことのない増山だ。

「今日も取調べだったんですか、こちらで?」志鶴は訊(たず)ねた。

「……うん」広がった鼻の穴から息が抜けて、「ふん」というようにも聞こえた。

「おつかれさまでした。……どんな感じでしたか、今日は?」

「起訴は?」増山が言った。

「はい?」

「起訴は? 岩切検事は俺のこと起訴したの?」

「……今日明日は休みだから、動きがあるとしたら明後日以降だと思います」

「そっか……」口を尖(とが)らす。目を上げた。「したよ、黙秘」

「──え?」

「だからぁ!」語気が強まる。「したって、黙秘」

 思わずまばたきした。

 増山の眉間に皺(しわ)が寄っている。

「……本当ですか」

 大きく息を吸った。心の奥では、増山に黙秘ができると信じていなかったのだと気づく。ゆっくりと息を吐く。

「今日の取調べ、ですか? ここでの」

 すると増山は、こくっと首を縦に振った。

「──すごい。やりましたね、増山さん」

 増山は目を合わせずに、ふんっ、と鼻を鳴らした。頰の肉が盛り上がった。

「おたくが昨日裁判所で言いかけた、俺が使える唯一の武器って黙秘権のことだったんだろ? それくらいわかるって」

 高揚しているらしい増山とは逆に、志鶴は慎重になった。

「その黙秘の状況も含めて、今日の取調べがどんなだったか、聞かせてもらえますか」

 ノートを広げ、ペンを手にする。

「どんなって──最初に『黙秘します』つって。そしたら、刑事たち、びっくりした感じで見合ってた。で、おたくが練習んとき言ってきたみたいに、『なぜいきなり黙秘するんですか? 昨日までちゃんと話してくれたのに。訊(き)かれたらまずいこととかあるのかな』とか言ってきた。それでも黙ってたら、『綿貫絵里香(わたぬきえりか)さんの死体を遺棄したこと、認めてたよね? それ、今から否認しようってこと?』って。思わず返事しちゃいそうになったけど我慢した。『わかんないなあ。なぜいきなり黙っちゃうかなあ。ひょっとして、弁護士さんに何か言われた? 黙秘しろとか』って言われたから、『はい』って答えたら、刑事たちが取調室を出たり入ったりしてた。何か外で相談してたっぽい」

 練習、というのは先日接見で行った黙秘のリハーサルのことだろう。

「そのあと、しつこく『どうして心を閉ざしちゃうかなあ。本当のこと話してもらわないと困るなあ』とか、『裁判になったとき、心証っていうのがあるんだけど、正直に話さないと裁判官や裁判員の心証は悪くなるよ』とか言ってきた。それでも黙ってると、全然関係ない世間話とかするようになったけど、それも無視してやった。どうせ罠(わな)じゃん。見え見えだっつーの」

 声が大きくなった。

「それで、そのあとは?」

「ん? 今日は何か早く終わった。意外と簡単じゃん、黙秘」

 なぜだろう。喜んでしかるべき状況のはずなのに、かえって不安を覚えた。

「取調べはこれまでより短い時間で終わった。そういうことですか?」

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里見 蘭(さとみ・らん)

1969年東京都生まれ。早稲田大学卒業。2004年、『獣のごとくひそやかに』で小説家デビュー。08年『彼女の知らない彼女』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞。主な著書は、『さよなら、ベイビー』『ミリオンセラーガール』『ギャラリスト』『大神兄弟探偵社』『古書カフェすみれ屋と本のソムリエ』『天才詐欺師・夏目恭輔の善行日和』など。