◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第4回

◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第4回
序章──予震 04
裁判員と裁判官に一度形成された有罪の心証を覆すのは困難だが──。

 志鶴は、司法解剖を担当した医師による鑑定書を書画カメラで提示した。

「検察側は、栗原氏の死因を、腹部の傷口からの出血による、出血性ショックとしています。救急手術を担当した医師による死亡診断書にも死因はそう記載されていました。司法解剖を担当した医師による鑑定書も、それを追従する内容でした。しかし、司法解剖では、死亡診断書には記されていなかった重大な事実も発見されています。リビングにあった家具に頭をぶつけた栗原氏の頭蓋骨にはひびが入っていたこと、そして、死亡の直前に、急性硬膜下血腫が生じていたと思われるという二点です」

 志鶴は、鑑定書の該当する部分を、赤ペンで囲った。モニターにもその様子が映る。

 頭部に外傷を受けると、頭蓋骨のすぐ内側にあって脳を覆っている硬膜の下に出血が起こって血腫化することがある。これが急性硬膜下血腫だ。手術によって血腫を除去すれば回復することもあるが、場合によっては死に至る原因ともなる。

「この法廷で、法医学の専門家は、栗原氏の死因が、出血性ショックではなく、腹部の救急手術を担当した医師には見逃されていた急性硬膜下血腫であった可能性が高い、と証言していました。栗原学氏の腸には爪やすりによる傷があり、もちろんそこからの出血もありました。しかし、傷は小さく、救急手術によって適切に縫合され、その間、輸血も行われています。検察側は、栗原氏の持病である特発性血小板減少性紫斑病が多量の出血を促したと主張していますが、手術の途中で出血は止まっていた。手術は成功したのです。それでも栗原氏が亡くなったのは、急性硬膜下血腫が原因と考えるべきです」

 裁判員たちはみな、志鶴を注視している。四十代既婚の女性会社員が、考え込むように口をすぼめた。

「解剖してみると、脳内には、死亡に至ってもおかしくない大きさの血腫ができていました。確かに、栗原氏の持病である特発性血小板減少性紫斑病は、彼の死に影響を及ぼしました──脳からの出血を促すという形で。栗原学氏は、出血性ショックではなく、急性硬膜下血腫によって亡くなったのです。星野さんが持っていた爪やすりによる傷は、栗原氏の直接の死因ではありません」

 志鶴はそこで言葉を切り、裁判員と裁判官を見回した。

 一度形成された有罪心証を覆すのは困難だ。それは理性だけでなく感情とも強く結びつくものだし、たいていの場合、感情は理性より強い。しかし、彼らが自分の話を理解してくれているのであれば──志鶴はそう信じていたが──検察の主張に少なくとも疑念を差し挟まずにはいられなくなっているはずだ。

「星野沙羅さんの首についていた、栗原氏によって絞められた痕、栗原氏の体の、爪やすりによってできた二ヵ所の傷、そして、栗原さんの死因。以上三つの証拠により、検察側の主張はすべて成り立たないことがわかりました。星野さんに殺意はなく、爪やすりによる傷も直接の死因ではないので、殺人罪は成立しません。星野さんは、生命や体に対する危険が迫った緊急状態にあり、やむを得ず栗原氏に抵抗したのです。それは、検察官が主張するような、殺意を持った攻撃とはほど遠い行為でした」

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里見 蘭(さとみ・らん)

1969年東京都生まれ。早稲田大学卒業。2004年、『獣のごとくひそやかに』で小説家デビュー。08年『彼女の知らない彼女』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞。主な著書は、『さよなら、ベイビー』『ミリオンセラーガール』『ギャラリスト』『大神兄弟探偵社』『古書カフェすみれ屋と本のソムリエ』『天才詐欺師・夏目恭輔の善行日和』など。