◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第3回

◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第3回
序章──予震 03
「異議あり!」検察官から激しく声が飛ぶなか、志鶴は事件の核心に迫る──。

 志鶴は、検察側が証拠として請求した、栗原学の死体の損傷状況をイラストにした書面を書画カメラで提示した。

「栗原氏の体には、腹部の傷の他、もう一つ、爪やすりによる傷がありました。左上腕部の内側に。検察側はこの傷を『防御創(ぼうぎょそう)』だと説明しています。防御創というのは、たとえば相手に刃物で攻撃され、自分の身を守るため、手で刃物を防ごうとしたときにできる傷のことです」

 志鶴はそこで左手を挙げ、自分の右手の指で該当部分を示して、事実認定者たちに見せた。

「しかし、傷がついていた場所は、この辺りですよ、ここ。ほとんど腋(わき)の下と言ってもいいくらいの位置です。うーん、不思議ですね」

 志鶴は、大げさに首をかしげて見せた。

「こんな場所に、一体どうやったら防御創がつくんでしょうか」

「異議あり!」検察官席から声が飛んできた。席を立った世良がこちらをにらんでいる。「ただいまの弁護人の発言は不正確で、事実認定者に誤った先入観を与えるものです」

 裁判長がこちらを見る。

「異議を認めます。弁護人は発言を訂正してください」

「わかりました」

 すでに目的は達している。志鶴はあっさり引き下がり、自分の腕を指さすのをやめた。声のトーンを変え、抑え気味に話す。

「先日、この法廷で、法医学の専門家の先生が証言してくださいました。防御創のほとんどは、前腕か手に認められるということでした。わかりやすく言えば、肘よりも手に近い部分です。これが圧倒的に多い、と。これまで先生が診断してきた七十症例以上の防御創のうち、上腕部にあったものは、わずか一件のみ。それも、どちらかといえば肘に近いところで、しかも体の外側に向いた場所だった。先生が見てきた中で、検察側が防御創として説明した位置に認められた防御創は一件もなかった。そういう証言内容でした」

 その法医学者を鑑定証人として喚問することを請求したのも、志鶴だった。検察側が異議を唱えたくてじりじりしているのを志鶴は肌で感じた。

「ここで栗原氏と星野さんの体格差を思い出してみましょう。栗原氏の身長は百八十二センチで、星野さんの身長は、百四十九センチ。腕の長さも十センチ以上違うという検証結果が出ました。もちろん、栗原氏の方が長い。爪やすりの全体の長さはわずか十五センチで、やすり部分の長さに至っては八・五センチしかありません。左上腕部内側についた傷の角度と深さを考えると、星野さんが栗原氏の二の腕の内側、腋の下に近い部分に同じ傷をつけようとするには、完全に栗原氏の懐に入っていなくてはなりません。栗原氏は剣道三段、柔道初段を有するスポーツマンで、消防士という仕事柄、ふだんからトレーニングを欠かさず、当日はアルコールも摂取していませんでした。もし彼が本当に、刃物を持った星野さんから身を守ろうとしたなら、こんな場所に防御創がつくはずはありません」

「異議があります!」世良がまた立ち上がった。「弁護人は、何ら証拠に基づかない弁論をしています」

「弁護人のご意見は?」裁判長が志鶴に問う。

「証拠に基づいた弁論であるのは明らかです。常識を持った人間であれば、誰でも推測できることです。検察官の異議には意味がありません」

 裁判長は少し考えてから、

「異議を棄却します。弁護人は続けてください」と言った。

 志鶴は法壇に向かって語りかける。

「栗原氏の上腕部内側の傷は防御創ではありません。では、どのようにできたのか。星野沙羅さんが一貫して証言してきたとおりのことが起きたのです」

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里見 蘭(さとみ・らん)

1969年東京都生まれ。早稲田大学卒業。2004年、『獣のごとくひそやかに』で小説家デビュー。08年『彼女の知らない彼女』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞。主な著書は、『さよなら、ベイビー』『ミリオンセラーガール』『ギャラリスト』『大神兄弟探偵社』『古書カフェすみれ屋と本のソムリエ』『天才詐欺師・夏目恭輔の善行日和』など。