◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第16回

◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第16回
第一章──自白 11
警察や検察と戦う方法を被疑者に伝える志鶴。ついに引き返せない一線を越えた。

「黙秘権は、刑事訴訟法だけでなく、日本国憲法でも認められている大事な権利です。取調べを受けたからといって、警察官や検察官の質問に答える義務はないんです。逆に、増山さんには、彼らに対して黙っている権利がある。法律で保障された権利です。それが、増山さんにとっての最大の武器になります」

 増山が考え込むような顔になった。

「抵抗があるのは当然です。まず私たちはふだん、相手からしつこく話しかけられてるのを無視するなんてこと、しませんよね。それに、質問に答えなかったら、相手を怒らせてひどい目に遭わされるんじゃないかと、心配になるのも当然です。でも、憲法で保障されている権利を侵害することは許されません。もし取調官が取調べで、黙秘していると不利になるぞとか、脅すようなことを言ったら、すぐ弁護士を呼ぶよう言ってください」

「……本当はやってないって言ったら、わかってもらえるんじゃ……」

 どう答えるべきか頭の中で組み立てをして、数瞬の間が空いた。

「今日の自白を撤回して今後は否認する、という方向ですね。そういう選択肢も考えられないことはありません。増山さんが警察や検察と戦うには、三つの方法が考えられます。一つ目は、黙秘権を行使して質問には答えない。二つ目は、供述はするけれど署名はしない。署名・押印を拒否する権利も、刑事訴訟法で認められています。三つ目は、供述して、誤りのない調書には署名する」

 最初の一つ目は情報も証拠も与えないという方針であり、後者二つは情報も証拠も与える方針である。以前であれば、署名押印をしなければ供述調書は証拠たりえなかったが、たとえ署名をしなかったとしても、取調べの録音・録画が行われると、録画映像そのものが証拠として用いられる可能性が高い。

「増山さんのお考えはわかりますが、自白を撤回する方針は、言い換えると、相手に対して情報を与えるということになります。自分を守るつもりでも、もっと不利な情報を与えてしまうおそれもある。相手はプロですから、そういう方向で供述調書を作成し、増山さんに署名させるように誘導するでしょう」

 被疑事実を認めない否認事件では、供述調書を一通も作成させない覚悟で臨むべし、というのが大原則だ。残念ながら本件ではすでに調書を取られてしまっているが、それでも今後は一通も作成させない方向で闘うべきだろう。

 それだけではない。増山淳彦が志鶴に真実を語っているという保証はない。いや──彼はほぼ確実に、何か重要な事実を志鶴に明かさずにいる。本当は死体遺棄をしているという可能性も現時点では否定できないのだ。無実を訴えたいために自分に不利な事実を隠したり、虚偽を述べたりして、それが、捜査機関が握っている証拠と矛盾していたら、それこそ最悪の結果を招くことになる。

「増山さんが本当に無実なら、今後、取調べで警察官や検察官に話をするメリットはまったくありません。ですから、私としては、黙秘することを強くお勧めします。質問には一切答えず、雑談にも応じない。答えるとしても『黙秘します』とだけ繰り返す」

 増山が黙り込んだ。

「不安はお察しします。同じ立場に置かれたら誰だってそうなるんです。これが、増山さんを守ってくれる『盾』になってくれるかもしれません」

 志鶴は、カウンターに置いてあった一冊のノートを持ち上げて、彼に表紙を向けた。

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里見 蘭(さとみ・らん)

1969年東京都生まれ。早稲田大学卒業。2004年、『獣のごとくひそやかに』で小説家デビュー。08年『彼女の知らない彼女』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞。主な著書は、『さよなら、ベイビー』『ミリオンセラーガール』『ギャラリスト』『大神兄弟探偵社』『古書カフェすみれ屋と本のソムリエ』『天才詐欺師・夏目恭輔の善行日和』など。