◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第4回 前編

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年の暮れの江戸を大火が襲う。幕府は北方交易開拓の準備を進めていた。

 

 七軒(しちけん)で料理茶屋を営む森戸屋栄三郎が、使いを二人宇田川町に寄こし、とりあえず自分の店まで避難してほしいと伝次郎に言ってきた。空の荷車を引いて来た二人は森戸屋雇いの者で、荷運びの人足として使ってくれという。田町九丁目と高輪の大木戸の間は七軒といって酒亭や料理茶屋などが並び、京のぼりにつけ東(あずま)くだりにつけここで宴を催すのが慣例となり、繁華な立場(たてば)となっていた。大名小路が大火となっているのを耳にするや、森戸屋が伝次郎の身を気遣ってくれたものとわかった。

 森戸屋栄三郎は、かつて伝次郎の地所で料理茶屋を営んでいたが、十二年前の目黒行人坂大火で焼け出されたのを機に七軒へ移った。七軒の空き店へ引き移る時に、森戸屋に頼み込まれ伝次郎が金五十両を五年の年賦で融通したことがあった。そんな折でもあり金貸しでもないので利子はなしにした。それを恩義に感じたらしく、以来栄三郎は年始の挨拶を欠かさない。貸した金子(きんす)を皆済した後も、年明けには必ず角樽(つのだる)を下げ羽織袴(はかま)で宇田川町にやって来る。そういう人物ゆえか店もことのほか繁盛し、今では地所ごと買い取って店も建て増していた。栄三郎のせっかくの厚意なので伝次郎は老下女のおとせを伴って七軒へ向かうことにした。

 七軒の森戸屋といえば「餞(はなむけ)雑煮」で知られるようになっていた。それというのも、七年前の正月、川崎大師詣でに向かう老人が、森戸屋で出した雑煮の餅をのどに詰まらせて死んだ。食あたりで死人を出せば料理茶屋はおしまいだが、食った餅を詰まらせて死んだのであれば死ぬ方が悪い。それでも年明け早々客に死なれたのは縁起でもないと栄三郎は気にやんでいた。年始の挨拶に来た栄三郎に、「存外、吉運を招くかもしれんよ」と伝次郎は笑い飛ばした。果たして、その三月に伊勢参りへ向かう板橋からの一行がやって来て、死人が出たという森戸屋の雑煮をぜひ喰いたいと言い出す馬鹿が現われた。死人がのどに詰まらせたのと同じ、搗きたての丸餅二つに、蒲鉾、鶏肉、椎茸、小松菜の具で出汁(だし)をきかせ供したところ、「死んでも悔いなし餞雑煮」のうたい文句で評判となり、それからは節季に構わず客から求められる一品となった。

 たわけであふれた世間では、何が幸いするかわからないものだった。

 

 二十六日夜四ツ半(午後十一時頃)、江戸城南東の内桜田、大名小路から出た火は、諸大名の上屋敷が集中する大名小路一帯を焼き尽くし、折からの北西風にあおられるまま京橋の南、築地(つきじ)と鉄砲洲(てっぽうず)の海側へと燃え広がった。

 京橋の南から新橋までの東海道沿いは、多くの町家が左右にひしめく地で、猛火は容赦なく飢えと疫病に苦しむ家々へ襲いかかった。紺屋町、南紺屋町、弓町、新肴町、鎗屋町、銀座町の一丁目から四丁目まで、尾張町元地、尾張町一丁目と二丁目、竹川町、出雲町、弥左衛門町、山城町、坂本町、加賀町、八官町、松屋町、数寄屋町の一丁目から四丁目まで、新道田町など東海道に沿った町家を残らず飲み込み、東の堀端に位置する三十間堀一丁目から八丁目にいたるまで人家のすべてを舐(な)め尽くした。灰となった家数は何千軒にもおよび焼け出された者も数万にのぼる惨事となった。

 東へ走った火は三十間堀を越えて東南に飛び移り、鉄砲洲と築地に並ぶ大小名の浜屋敷を炎上させ、西本願寺も全焼させて、東浜の小田原町まで一面の焼け野原とした。

 東海道に沿って南へ走った火の手は、新橋を焼き落とし、芝口の一丁目から三丁目までを全焼させた。その南の源助町裏店までを焼いて、二十七日申刻(さるのこく=午後四時頃)ようやく鎮火を見た。宇田川町の伝次郎宅までは、わずか三丁ほどの距離しかなかった。

 また、浜側に広がった火は汐留橋を焼き落とし、脇坂淡路守の上屋敷、次いで伊達重村の仙台藩上屋敷をほぼ焼き尽くし、かろうじて表門のみを残して鎮火した。新銭座町は仙台藩上屋敷と横道を隔てただけの位置にあったものの幸い火の手はおよばず、丸屋の家もかろうじて焼け残った。東南海中に張り出した浜御殿は無事だったが、御殿付きの船は全焼した。

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飯嶋和一(いいじま・かずいち)

1952年山形県生まれ。83年「プロミスト・ランド」で小説現代新人賞を受賞しデビュー。88年『汝ふたたび故郷へ帰れず』で文藝賞、2008年『出星前夜』で大佛次郎賞、15年『狗賓童子の島』で司馬遼󠄁太郎賞を受賞。18年刊行の最新作『星夜航行』は、第12回舟橋聖一賞を受賞。

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