◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第3回 後編

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町奉行から米の廉価販売の達し。伝次郎の耳に幕府の蝦夷地開発の噂が──。

 

     九
 

 伝次郎は手持ちの絵地図を持ち出した。百年ほど昔のブラウの地図を底本としたオランダ製のものには、本州と九州、四国は載っていたが、蝦夷島は影も形もなかった。

『和漢三才図会(わかんさんさいずえ)』には蝦夷島の図が載っており、南北に細長い島として描かれていた。地図というより沖から眺めた島の形を思わせた。北の端には、韃靼(だったん)国に属するという「加良不止(カラフト)島」がわずかに顔を覗かせていた。蝦夷島の南端に「松前」が大きな字で示され、「松前志摩守(しまのかみ)の居城である」との注釈が添えられていた。土山宗次郎にそそのかされて稲毛屋が出かけたというエサシ(江差)は、その南西に湾を備えて出ていた。

 そういえば、このたび江戸の町奉行所での達しは、米一石を「銀七十九匁七分」で廉価販売するという、銀価格によるものだった。大坂を中心とする西日本の銀遣いに対して、江戸より東はもっぱら金で売買を行ってきた。通貨は、金、銀、銭の三貨幣が別々の価値系統で流通し、しかもそれぞれの相場が常に変動していた。金一両が銀の何匁に当たるのか、日ごとに相場が違い、全国規模の流通での障害となっていた。その統一されない金と銀との貨幣制度を変えようとしたのも田沼意次だった。

 田沼意次が老中に昇った安永元年(一七七二)、幕府は大量に輸入した海外の安い銀を用いて「南鐐二朱判(なんりょうにしゅばん)」なるものを鋳造した。南鐐とは極上の銀という意味である。これは銀の含有量が非常に高く、ほぼ純銀とも言える良質の銀貨だった。俗に二朱銀とも言った。表面には「南鐐八片を以(もっ)て小判一両に換ふ」と刻まれ、小判一両の八分の一の価値と定められた銀貨だった。それまでの丁銀や豆板銀などは、いちいち目方を計って取引された。南鐐二朱判は、銀貨としての重量は示されず、じかに金貨との交換を可能とした定額貨幣だった。銀貨を秤(はかり)にかける手間をはぶき、南鐐二朱判八枚で金一両と交換できるようになり、金貨と銀貨の交換比率を確定した。

 ところが、田沼意次の意志に反し南鐐二朱判は不評だった。上方(かみがた)ではそれまでの丁銀と豆板銀使用の習慣から嫌われ、両替商には金銀比率の変動で利益を目論むゆえに邪魔者扱いされた。庶民からも、何か裏の思惑があるものと銀の質を疑われ、南鐐二朱判十枚で一両と交換するようなことも起きた。計量する必要がないのだから表面だけ銀をかぶせた偽の二朱判が出まわっているという噂も流れた。

 しかし、金と銀貨幣の交換比率が国内で日々不安定なままであれば、特に異国貿易では面倒なことになる。また金銀のみの取引が成立してしまい海外の相場に通じた異国商人を不当に儲けさせてしまうことも起こる。南鐐二朱判の鋳造は、国内の流通ばかりでなく異国貿易を積極的に推し進めるために国内貨幣の一本化を図る必要があったためだと思われた。

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飯嶋和一(いいじま・かずいち)

1952年山形県生まれ。83年「プロミスト・ランド」で小説現代新人賞を受賞しデビュー。88年『汝ふたたび故郷へ帰れず』で文藝賞、2008年『出星前夜』で大佛次郎賞、15年『狗賓童子の島』で司馬遼󠄁太郎賞を受賞。18年刊行の最新作『星夜航行』は、第12回舟橋聖一賞を受賞。

◎編集者コラム◎ 『都立水商1年A組』室積 光
あまりに恐ろしい近未来/ジェイミー・バートレット 著・秋山勝 訳『操られる民主主義 デジタル・テクノロジーはいかにして社会を破壊するか』