◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第2回 後編

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庶民の間で募る田沼意次への不満。加瀬屋伝次郎は村山打ちこわし騒動を知り…

「確かに、以前、錦絵の春信(はるのぶ)のもとで版下を描いていたとか、聞いた覚えはあります。ですが、例の山師(やまし)、平賀源内の所へ出入りなどしまして、いよいよ馬鹿に羽が生えたようなもので、手がつけられません。もうじき三十路(みそじ)に踏み入れようという歳になって、絵筆を持っていない時は寝てばかりおります。月代(さかやき)も髭(ひげ)も伸ばし放題に垢(あか)じみた単衣(ひとえ)一枚でおりながら、周りの者を下賤(げせん)扱いして口もきかず、人の子を見れば野猿(のざる)呼ばわりして親とそっくりだと鼻で嗤う始末でして……」

 平賀源内の『放屁論(ほうひろん)前編』が書かれたのはその前年のことだった。屁で音曲(おんぎょく)を奏し客を集める芸人の話で、タテマエだけを振りまわすしかない武士の哀れをあざけり、偉そうに世にのさばりながら実(じつ)のない学者、文人、歌人、医者、俳諧師、茶人らを片っ端からみなこき下ろして、屁ったれ芸人より劣る輩(やから)と痛罵していた。源内が秩父鉄山の採掘に失敗した年で、大ボラ吹いて人を騙し金をせしめる「山師」の列に加えられた年でもあった。

 伝次郎は、手持ちの一分と二朱の金も加え、結局金八両を藤太郎に渡した。

 藤太郎は、「旦那に話を持ち込むんじゃなかった」とあきれ顔で言った。

 

 丸屋が宇田川町の伝次郎を訪ねて来たのは翌日のことだった。藤太郎の話では、およそ人に礼を言うために足を運ぶような律儀な人物ではなさそうだったが、羽織袴(はおりはかま)に本多髷(まげ)、月代も髭もきれいにあたって神妙な顔で現われた。

 頬骨の張った色白の細面で顎(あご)先が尖(とが)り、濃く短い眉といかにも才人らしい二重の大きな目をしていた。細い鼻梁(びりょう)の尖った鼻先、薄く締まった上唇に対して不釣り合いな厚い下唇をしていた。

「新銭座町の勝三郎と申します」と自ら通称を名乗った。

 伝次郎は、「らくになさいよ」と言ったのだが、「旦那さんには、過分な画代を賜わり有り難うございました」と端座したままで深く頭を下げた。藤太郎が見たならば、ひっくり返るにちがいないと思った。

「いや、見事なもんだ。竹の凜然(りんぜん)としたさまをよく出しなすった。表具屋に持って行かせた。軸はどうも嫌でね。額にしようと思うんだが」

「ありがとう存じます。いかようにでも、旦那さんのお好みで楽しんでいただければ何よりと思います」

 丸屋の話によれば、錦絵の仕事から離れ、漢画(かんが)の宋紫石こと楠本幸八郎(くすもとこうはちろう)の門人となったのは二十四を数える年だったという。宋紫石は、平賀源内と親しく、おそらく源内とのかかわりがあってのことだろう。

 宋紫石は、江戸に生まれ、若き日に長崎で会所の会計役をつとめていた。生来画才に恵まれ、長崎で熊斐(ゆうひ)こと神代彦之進(くましろひこのしん)から清国正統の写生体花鳥画を学んだ。熊斐の師が、享保十六年(一七三一)に清国から長崎へ渡来した沈銓(しんせん)、画号南蘋である。

 沈銓から熊斐、熊斐から宋紫石、そして丸屋勝三郎へと、南蘋派の漢画技法は恵まれた画才によって確かに伝えられた。平賀源内も加わって巡り巡った奇妙な縁も、天の力がどこかで働いているように伝次郎には思われてならなかった。

 

 あれから気がつけば九年の歳月が流れていた。丸屋に対する世間の風評は、相変わらずろくなものではなかった。だが、画業に打ち込み続けた結果、三年ほど前の天明元年(一七八一)九月、丸屋は、仙台藩主の伊達重村(だてしげむら)から江戸藩邸で席画をなすよう招かれるぐらいの絵師となった。

(連載第3回へつづく)
〈「STORY BOX」2019年4月号掲載〉

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飯嶋和一(いいじま・かずいち)

1952年山形県生まれ。83年「プロミスト・ランド」で小説現代新人賞を受賞しデビュー。88年『汝ふたたび故郷へ帰れず』で文藝賞、2008年『出星前夜』で大佛次郎賞、15年『狗賓童子の島』で司馬遼󠄁太郎賞を受賞。18年刊行の最新作『星夜航行』は、第12回舟橋聖一賞を受賞。

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