◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第2回 前編

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庶民の間で募る田沼意次への不満。加瀬屋伝次郎は村山打ちこわし騒動を知り…

『上は天上より下は万民にいたるまで、去る卯年(天明三年)冬より当辰(同四年)春にいたるまで、米穀雑穀の高値より始まり、餓死におよぶ者まで限りなきがため、それぞれの領主に願い出ても、領主、地頭、代官の力にはとてもおよばず、下々の有する雑穀を麦収穫までの食糧に残し置き、多き分は時の相場をもってすべて売りさばくよう再三お触れを出され、そのうえ少々の糧(かて)までお借し下されましたが、とても露命(ろめい)をつなぐまでにはいたらず。落命する者が甚だ多し……』

 宇助ら羽村の村方三役は、おのれの身を捨てて近隣の村々に一揆を呼びかけ、飢餓に瀕する村民を救おうとした。天明元年(一七八一)からの異常な冷夏続きと前年の浅間噴火など相次ぐ天災による凶作が飢饉の原因であることは誰でも知っている。だが、奥羽(おうう)を始め百万人ともいわれる餓死者と病死者は、救済する力を喪失した幕府と諸藩、そしておのれの利益と保身しかない商人どもによる人災が輪をかけたことは明らかだった。

 二月二十六日夜、武州多摩・入間両郡四十か村の高札場や辻に張り紙がなされた。

『    口上
 去る卯年(一七八三)、関八州ならびに出羽・奥州まで不作につき、米穀ならびに雑穀など法外の高値となり、右の国々の百姓ども大いに困窮してお上(かみ)に訴え出ましたところ、このたび御回状にて、それぞれの村で村役人が立ち会い、小前(こまえ)の百姓が所持する雑穀を一軒ずつ検(あらた)め、その家族の人数と引き合わせて、この夏の麦等が収穫できるまで必要の糧を残し置き、余分の分は最寄りの市場と町場へ出して売りさばくようにとのお触れとなりました。
 ところが、近在の富裕の者ども、右のお触れを恐れもせず、集まっては談合いたし、市場や町場はもちろん、小前の雑穀までを買い貯めつづけておる次第です。大勢の難儀を全く顧みることもなく、御法さえ無視する不届き千万なやり口です。
 よって、ご相談いたしたき儀がありますので、来る二十八日暮れ六ツ(午後六時)より五ツ時(午後八時)までに箱根ヶ崎村は狭山(さやま)の池にお集りいただきたく存じます。村それぞれ高百石の田畑ごとに二十人くらいの見積もりで、村々一同こぞってご参加なされたく願う次第です。
 もし、ご参加なき村には、心ならずも大勢で押し寄せ理不尽の出来事も起こりえますので、よくよくこの事をお考えなされ、右の刻限をお間違えることなくご出会なさるよう願う次第です。 以上』

 

 二月二十八日夜、指定された狭山の大池には多摩・入間両郡から二万を超える農民が集合した。東に高山、南北西の三方を野山に囲まれた湖畔は、おびただしい松明(たいまつ)の火光で溢れた。

 九ツ(午前〇時)、箱根ヶ崎村は三社権現の山頂から老人の声が「山王前へ、山王前」と指令を発した。二万余の松明は、松竹の紋を描き込んだ高提灯(たかちょうちん)を先頭に東南へと揺れながら流れ出した。群衆はそれぞれ斧(おの)、大槌(おおづち)、鋸(のこぎり)、鋤(すき)、鍬(くわ)などの得物を手にし、二里離れた中藤村の山王前へと向かった。

 中藤村の山王前に文右衛門という大百姓がいた。表ばかりか裏にまで長屋(ながや)門を構え、広大な敷地に土蔵を並べ立てていた。文右衛門のほうも、二日前の張り紙に危険を察し、下男や作男に槍や刀ばかりか鉄砲まで備えさせ門の警備を固めていたものの、狭山の湖畔にこれまで見たことがないほどの一揆衆が集(つど)っているとの報せに、暮れ六ツ前に文右衛門は妻子や家族をともなって他村へ逃れた。

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飯嶋和一(いいじま・かずいち)

1952年山形県生まれ。83年「プロミスト・ランド」で小説現代新人賞を受賞しデビュー。88年『汝ふたたび故郷へ帰れず』で文藝賞、2008年『出星前夜』で大佛次郎賞、15年『狗賓童子の島』で司馬遼󠄁太郎賞を受賞。18年刊行の最新作『星夜航行』は、第12回舟橋聖一賞を受賞。

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