◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第2回 前編

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庶民の間で募る田沼意次への不満。加瀬屋伝次郎は村山打ちこわし騒動を知り…

 

     四


 天明四年(一七八四)三月二十四日、若年寄の田沼山城守意知(やましろのかみおきとも)が江戸城内で佐野善左衛門(ぜんざえもん)に斬られ、二日後死去した。その後、父田沼主殿頭意次(とものかみおきつぐ)は喪に服するでもなく、常と変わらず登城して政務に当たっているという。

 田沼意次は、背丈五尺三寸(約百六十センチ)ほどの痩身で、色白の面長、気品のある顔だちをした人物だった。おのが政策を継続して実現してくれるはずの嫡男意知が凶刃に倒れたにもかかわらず、意次は何事もなかったかのように登城し政務に打ち込んでいる。その話は、およそ常人離れした冷酷非情な性格を想像させ、ただでさえ憎悪の標的となっていた田沼意次への、庶民からの風当たりはいっそう強いものとなった。

 

 四月二十日、芝宇田川町(しばうだがわちょう)の居つき地主・加瀬屋伝次郎(かせやでんじろう)のもとへ、町年寄の喜多村彦右衛門から両替屋を無許可で営む者を禁ずる町触(まちぶ)れが届けられた。

 両替屋もご多分にもれず株仲間を作り幕府に運上金(うんじょうきん)を上納して、引き換えに江戸市中における両替屋の人数を制限できる特権を得ていた。江戸の両替屋として官許を受けていたのは、町方で六百人、寺社領で三十五人、合わせて六百三十五人だけだった。ところが、無許可の両替屋が後を断たず、この町触れとなったものと思われた。

『両替屋以外の者に銭(ぜに)を売り渡すことは、けして行ってはならない。
 もし背反した者がいた場合には、本人はもとより家主、五人組、名主まで同罪とする。右のこと、町中へ触れ出して徹底させ、厳守させるべきものである』

 何よりの問題は、金・銀・銭三貨幣のうち、庶民がもっぱら使う銭のみが相場下落し、加えて物価の上昇は庶民の暮らしを深刻なものにしていることだった。

 町衆の大多数に当たる下層の職工人は、銭で手間賃をもらい受けるが、家賃や地代、衣食代は金(きん)で支払うのが慣例となっていた。日々の暮らしのためにはどうしても銭を金に両替してもらう必要が生じ、銭安による手取りの目減りが甚だしいものとなって久しかった。幕府から公認された両替屋より少しでも多額の金と替えてくれる者を探すのは、当然の成り行きだった。

 銭相場の下落は、この十五年余あまりにひどかった。幕府の意図する公定の銭相場は、従来より金一両に対し銭四貫文というものだった。その銭相場が明らかに下がり始めたのは、明和五年(一七六八)のことである。金一両に対する銭の相場が四貫百三十文から四貫四百三十文まで一気に下がった。

 原因は、その明和五年、幕府が真鍮四文銭(しんちゅうしもんせん)を鋳造したことにあった。さらに銭安は、その前年の七月に田沼意次が側用人(そばようにん)となり、知行(ちぎょう)二万石を受け国持大名となって遠江(とおとうみ)相良(さがら)に築城を始めたのと時と同じくしていた。庶民の田沼意次に対する怨嗟(えんさ)の声は、何よりも銭の増鋳策によって銭相場の下落と物価高とが引き起こされたことに因(よ)っていた。

 

 明和五年四月、幕府は水戸藩に対し、一年に十万貫文ずつ向こう三カ年に渡る寛永通宝(かんえいつうほう)の鋳造を許可した。財政難の水戸藩は領内の銭不足を解決するという名目で、領内太田村の木崎に鋳造場を作らせた。東西百六十間(約二百八十八メートル)、南北百間(約百八十メートル)の敷地に二重堀を設け、百基の炉を築き、砂鉄を用いて鉄銭の鋳造を開始した。金座支配の後藤庄三郎から三千人の職人が送り込まれ、鋳造場近くには商店百軒余、十一軒の茶屋まで店開きした。茶屋には百五十人を数える食売女(めしもりおんな)がいると語られた。鋳銭は、請け負った者が座を作って鋳造し、その十分の一を水戸藩に運上として上納し、残り九割は請け負う座の取り分となる仕組みだった。

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飯嶋和一(いいじま・かずいち)

1952年山形県生まれ。83年「プロミスト・ランド」で小説現代新人賞を受賞しデビュー。88年『汝ふたたび故郷へ帰れず』で文藝賞、2008年『出星前夜』で大佛次郎賞、15年『狗賓童子の島』で司馬遼󠄁太郎賞を受賞。18年刊行の最新作『星夜航行』は、第12回舟橋聖一賞を受賞。