◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第1回 後編

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歴史小説の巨人・飯嶋和一が描く新たな田沼時代、連載開始!

 

     二
 

 四月六日夕、丸屋勝三郎がまたやって来た。三日前、佐野善左衛門が評定所で切腹を言い渡され、牢屋敷に戻された後、揚屋の前庭で切腹したのだという。評定所では、佐野善左衛門の乱心による凶行と型通りの判断が下され、知行(ちぎょう)の五百石はさすがに没収され家も断絶となったものの、隠居していた七十過ぎの父親は縁座(えんざ)をまぬがれ、善左衛門の家財をそのまま引き継いだ。

 殿中で刀を抜き若年寄を斬殺した下手人が切腹の厳罰に処されたにもかかわらず、父親は罪に問われなかった。それも奇妙な話だった。乱心によるものならば、同行していたほかの若年寄二人ではなくなぜ田沼山城守だったのか。一太刀浴びせた後も佐野善左衛門が執拗(しつよう)に田沼山城守を追って致命傷を与えるまで切り付けたのか説明がつかない。

 善左衛門の遺体は新番組の同僚に引き渡され、浅草の徳本寺(とくほんじ)に葬られた。どこで聞きつけたものか、大勢の町衆が善左衛門の墓所に押し寄せ、浅草の東本願寺周辺は寺の開帳日や市日のような騒ぎとなった。徳本寺の賽銭箱に投げ入れられた銭は一日で十貫目(約三十七・五キロ)を超えるほどだと聞いた。寺の周囲には「世直し大明神」の幟(のぼり)が立ち並び、日を追うごと参詣の衆が押し寄せているという。

「花や線香を商う露店が並ぶばかりか、四斗樽に水を張って使わせ銭を取る手水(ちょうず)の新商売までが現われたらしい」勝三郎はそう言って笑った。

 たまたま米の相場がわずかに下がり、田沼山城守を斬殺した佐野善左衛門はいよいよ世直しの大明神にまつり上げられたらしかった。

「笑うべし。佐野某(なにがし)は大罪人だろう? そんなお祭り騒ぎに寺社方は何の取り締まりもせず、眺めているのか」伝次郎は尋ねた。

「さすがに寺社奉行も見とがめ、寺と関わりのない者の参詣を禁ずる札も立て、同心を寺に配して禁じたものの、一向効き目なく、賽銭箱には連日十五貫目を超える銭がたまり、善左衛門の戒名を欲しがる者が後を断たず、戒名をもらった者は二貫目もの謝礼を置いていくそうです」

 禁じられればなおのこと夜陰にまぎれて参詣する者が引きも切らず、門外から夕立のごとく賽銭を投げ入れ、寺は思いがけぬ大繁盛となった。また、佐野善左衛門が田沼山城守を切り付けた脇差が粟田口忠綱(あわたぐちただつな)の作だとかで忠綱の打った刀の相場も一気に値上がりしたとの話だった。

「どうでも勝手に棕櫚箒(しゅろぼうき)だ」伝次郎は笑い飛ばすしかなかった。

 佐野善左衛門が田沼山城守を切り付けた時に「覚えがあろう」と叫んだ話も流されていた。が、元禄(げんろく)の浅野内匠頭(たくみのかみ)の二番煎じに過ぎず、相当に芝居がかっていた。そもそも赤穂義士討ち入りの一件も、四十七人もの者が夜間寝込みを襲い、寄ってたかってたった一人の老人を斬殺したという酷(むご)たらしいだけの話で、どこが義挙なのかと伝次郎は思っていた。低俗道徳なるものほど始末の悪いものはない。このたびの佐野善左衛門も、悪政の限りを尽くす田沼意次の後継者を討ち、自らの生命と引き換えに世直しを決行した義人扱いされている。だが真相はそんな巷間(こうかん)に語られるものとは全くかかわりのない、江戸城内の権勢争いに絡む根暗いものだろうと伝次郎は思った。

 丸屋によれば、このたびの凶行について佐野善左衛門は取り調べに次のように供述したという。

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飯嶋和一(いいじま・かずいち)

1952年山形県生まれ。83年「プロミスト・ランド」で小説現代新人賞を受賞しデビュー。88年『汝ふたたび故郷へ帰れず』で文藝賞、2008年『出星前夜』で大佛次郎賞、15年『狗賓童子の島』で司馬遼󠄁太郎賞を受賞。18年刊行の最新作『星夜航行』は、第12回舟橋聖一賞を受賞。