◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第9回 後編

◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第9回 後編

小堀政方の罷免で江戸市中に広まる快哉の叫び。
幕府普請役配下の徳内は千島列島を目指し──

 

 徳内は、出羽国村山郡楯岡(たておか)の小百姓甚兵衛の長男として宝暦五年(一七五五)に生まれ、この年三十二歳を数えた。故里の楯岡は、福島の北に位置する桑折(こおり)から青森まで出羽国を南北に貫く羽州街道の宿場町で、煙草の産地ゆえに父甚兵衛も煙草切りを生業とした。徳内十六歳の時、ほど近い谷地(やち)の煙草屋へ奉公に出て、南は仙台、北は津軽まで行商の旅を重ねた。叔父に清心という村医者がおり、徳内も医学を志し、父没後の天明元年(一七八一)単身江戸に出、やがて日本橋本石町の幕府医山田圖南(となん)の書生となった。しかし、徳内は、医学より算学への志向が強く、山田圖南のもとを去って湯島の永井正峯(せいほう)に入門した。そして、天明三年(一七八三)に正峯の師、本多利明の音羽塾に入門した。

 本多利明は、幕府による蝦夷地検分の計画を知るなり、旧知の青嶋俊蔵(あおしましゅんぞう)に徳内の参加を強く推し、実現させた。

「音羽先生」こと本多利明は、越後国桃崎浜の生まれ、この天明六年、四十四歳を数えた。西洋の天文・測量・地理を研究し、塾生には算学と天文学を教授した。本多利明が従来の蘭学者の域を越えていたのは、いかに世の中を無事に治め民を救うか、いわゆる経世済民(けいせいさいみん)の具体的な策を考え出したところにあった。

 単なる西洋の学理探究から経世家へと向かうにいたる本多利明の動機には、何よりも天明三年からの大飢饉があった。天明三年秋から翌四年六月まで、津軽藩や仙台藩では三人に一人が飢餓と疫病で死亡した。ことに津軽藩では、死者八万千七百二人、死馬一万七千二百十一頭、荒れ田一万三千九百九十七町歩余、荒れ畑六千九百三十一町余を数えるという惨状だった。

 相次ぐ天変地異と悪政によって大飢饉に見舞われ、全国では百万人近い民が死んだと語られた。まずなすべきは、「民を済(すく)う」ことである。そして、飢饉、間引き、荒廃亡地という農村の窮状を脱却させなくてはならないと本多利明は考えた。

 その方法の一は、海に囲まれた日本が万国との交易を行うことである。そして次に、日本の本来領土であるはずの蝦夷地や樺太など北方近隣の島々を本土からの植民によって開発し、産業を興すことである。本多利明は、「開国交易」と「属島開業」によって危機に瀕している全国の農民を救済できると考えた。とくに放置されたままになっている蝦夷地、カラフトなどの島々に本土から困窮民を入植させることによって開拓する必要がある。

 現状の各藩ばらばらな藩体制のままでは、飢饉が起こればなす術もなく大勢の民がまた死んで行くことを繰り返す。日本を一国とする見地に立ち、それぞれの藩を超えて困窮する地域に米穀を輸送すれば、これほどの餓死者と疫病死者をむざむざ出さずに済んだはずだ。藩体制を超えて一つの国として、「開国交易」と「属島開業」に早急に取りかからなくてはならない。

 国家のあるべき姿は、エングランド(イギリス)・フランカレイキ(フランス)・スパンエ(スペイン)・オランダ・ポルトガルなど、ヨーロッパにおける富強国を理想とする必要がある。これらの国々は外国交易によって、他国の国力を抜き取り、自国内に取り込むがゆえに富強国なのである。彼らの交易に学ばなくてはならない。そのためには遠洋を航行できる船舶を充分に備え、航海術を向上させなくてはならない。渡海、運送、交易の向上こそが肝要である。貿易制限令の幕府祖法、いわゆる「鎖国」のごときは、もはや障害以外の何ものでもない。

 なかでも本多利明は、蝦夷地開業を急務のうちの急務であるとした。明和八年(一七七一)、ハンガリー人のベニョフスキーが、幕府に警告した一件が本多利明の脳裏にあった。

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飯嶋和一(いいじま・かずいち)

1952年山形県生まれ。83年「プロミスト・ランド」で小説現代新人賞を受賞しデビュー。88年『汝ふたたび故郷へ帰れず』で文藝賞、2008年『出星前夜』で大佛次郎賞、15年『狗賓童子の島』で司馬遼󠄁太郎賞を受賞。18年刊行の最新作『星夜航行』は、第12回舟橋聖一賞を受賞。

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