◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第7回 前編

◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第7回 前編

『松前志』の記述に引っ掛かりを覚える伝次郎。玄六郎が蝦夷地で接触した先住民は──。

 知床半島を通過した九月半ばには、南太平洋で発生した台風が息も絶え絶えになりながらも繰り返し到来して、連日海は大荒れとなった。この海域の航行に熟達した先住民たちでさえ、なかなか舟を出せない日が続いた。

 ノサップ(納沙布)半島の北岸、ノッカマップは、先住民の大集落があり、蝦夷本島北端の中心地だった。安永七年にクナシリ島の首長ツキノエは、まずこの地にロシア商人を案内し松前藩に通商を求めさせた。そのロシア商人による通商交渉すら、この天明五年に山口鉄五郎と青嶋俊蔵がクナシリに渡ってツキノエと会うまで、幕府は全く知らずにいた。

 ノッカマップに着いた佐藤玄六郎は、この地の首長ションコと会い、ロシア人の動向を聞き出そうとした。ションコが玄六郎に訴えたのは、松前藩の先住民に対する横暴と江戸からの探索方に北方事情をひたすら隠蔽しようとする藩の体質だった。

「当年、私はエトロフ島まで参りましたが、赤人(ロシア人)は来ませんでした。エトロフには、赤人の通辞をやっているシムシリ(霜知島)のアイヌが来ただけでした。
 私は常々、錦(絹織物)や木綿、そのほかの交易品を運び、ノッカマップの運上屋で商いをしております。ノッカマップの運上屋には、交易品の赤人の衣服などが置いてありましたが、松前藩の通辞で三右衛門と申す者と運上屋の支配人の小次郎という者が、江戸からの方々が赤人の衣服などをご覧になるのは困ると申し、靴には石を入れて海に捨て、それらの品々を山中のわからぬ所に隠しました。
 この秋、江戸から来られた方が、クナシリ島のツキノエに、ウルップ島に来ているという赤人の件を確かめて来るよう依頼され、ツキノエはウルップに渡って確かめた後、シベツ(標津)に戻って来ました。佐藤玄六郎殿が舟でシベツを通られました時に、ツキノエはなんとか殿に会おうといたしましたが、松前藩の者どもは、ツキノエを見張って殿と会うことを許しませんでした。もし会いに出て行くならば、槍で突き殺すと申しますので、ツキノエも仕方なく閉じ込められたまま、お会いできませんでした。それを至極残念に思っておりました。松前の者は、このように、皆悪人ばかりなのでございます」

 ションコは、松前藩と出入り商人の日頃からの悪徳を訴えた後、「わたくしどもは、米や煙草を作りたく願っております。なにとぞその種子を渡してその作り方を教えてくださいますようお願いいたします」と玄六郎に願い出た。

 玄六郎が「そのむねを上に申し立て、なんとかできるようしてやりたい」と答えると、ションコはとても有り難いと再拝して、「これから毎年江戸の船をこの地に廻してくだされば、我々はいっそう精を出しまして、申しつけられました産物を何であれ必ず差し出す覚悟でございます」と繰り返した。

 このたびの普請方(ふしんがた)による検分は、松前藩から蝦夷地を召しあげ幕府直轄領として組み入れることを前提にしたものである。しかも、蝦夷地の先住民の心は、とうに松前藩と離反しており、幕府の支配下に直接組み込まれることを望んでいた。ツキノエやションコら首長層はもとより、蝦夷地の先住民が、このたびの普請役検分に率先して協力する理由はそこにあった。

 そして、広大な土地を持つ蝦夷地での農作が可能かどうか、玄六郎らはそれを確かめなくてはならなかった。蝦夷地入りしてからこれまで、調べた限りでは農作の充分な可能性を秘めていた。

 先年、先住民がイシカリ(石狩)川の上流で稲作を行い、相応のみのりを得た。ところが、その話が松前にまで届き、種モミもふくめすべて没収されてしまった。そのうえ稲作を行った先住民たちには「ツグナイ」と称する罰金までが科せられたという。それでも先住民たちは、和人の目につかない山中でひそかに粟や稗(ひえ)を作っていた。

 穀物は保存ができるため、余った分を蓄えることができる。それを用いてロシア人と鉄砲などの強力な武器との交易も可能となる。ウルップ(得撫)島に来るロシア人はとくに米と煙草を必要としており、稲作は先住民に力を与える危険があった。松前藩は、先住民に和語を禁じ、稲作をはじめ農耕を厳しく禁じていた。

 東蝦夷地ノッカマップで、ションコは、米や煙草を作りたいと玄六郎に訴えた。おそらく彼らはノサップ半島のどこかでそれらを試作したことがあるのではないかと思われた。

(後編へつづく)
〈「STORY BOX」2019年9月号掲載〉

次記事

前記事

飯嶋和一(いいじま・かずいち)

1952年山形県生まれ。83年「プロミスト・ランド」で小説現代新人賞を受賞しデビュー。88年『汝ふたたび故郷へ帰れず』で文藝賞、2008年『出星前夜』で大佛次郎賞、15年『狗賓童子の島』で司馬遼󠄁太郎賞を受賞。18年刊行の最新作『星夜航行』は、第12回舟橋聖一賞を受賞。

◉話題作、読んで観る?◉ 第20回「火口のふたり」
ハクマン 部屋と締切(デッドエンド)と私 第18回