◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第7回 前編

◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第7回 前編

『松前志』の記述に引っ掛かりを覚える伝次郎。玄六郎が蝦夷地で接触した先住民は──。

 同年十二月、飛驒屋は、松前藩に貸し付けた六千八百五十二両の返済と松前藩の不当な営業妨害を幕府に訴え出た。松前藩は、何もかも明るみに出されることを恐れ、船頭自殺にいたった飛驒屋船の臨検や商場没収を、家老の蠣崎佐土(かきざきさど)と勘定奉行の湊源左衛門が勝手に行ったことで、藩とは一切かかわりがないものと主張した。

 幕府評定所の判決は、飛驒屋久兵衛の訴えを認め、蠣崎佐土と湊源左衛門を重追放、南部屋嘉右衛門を死罪とした。松前を追放された湊源左衛門は、以後江戸に隠棲し、赤蝦夷(ロシア)や蝦夷地の情報を工藤平助(くどうへいすけ)や土山宗次郎にもたらすこととなった。

 

「松前藩で加藤姓のオロシャ通の人物を探ってほしい」という伝次郎の依頼に、丸屋勝三郎は湊源左衛門を訪ね、すぐに返答を携えてきた。

「松前藩の医者で加藤肩吾(かとうけんご)という者が、奥蝦夷やカラフト、オロシャにとてもくわしいそうです。もしオロシャ人が蝦夷地に来て松前藩から応対にあてるならば、その加藤肩吾という医者を遣わすだろうということでした。
 それにしましても、旦那がなぜその加藤を知っておられますので」と丸屋はきいた。

「いや、最近手に入れた書物に加藤というお人のことが書いてあったので、ちょいと気になったまでだ」と伝次郎ははぐらかした。

『松前志』には引っかかる記述がほかにもあった。著者の松前廣長は、三十年前にその加藤から話を聞いたが、その頃自分は「壮年だった」と述べていた。ところが丸屋が調べてくれたところによれば、松前廣長は元文二年(一七三七)冬の生まれで、『松前志』を著した天明元年(一七八一)の時点では四十五歳となる。その約三十年前となれば、壮年どころか少年に近い。そして、著者の松前廣長も、その加藤肩吾も、松前に健在であるという。やはり、加藤なる人物を幕府から特定されまいとする意図が働いているに違いなかった。伝次郎が想像したとおり、加藤肩吾はロシア人の持っていた地図を写し、それを松前廣長が『松前志』に載せたものと思われた。

 そうであるならば、『松前志』に書かれた加藤の話は、ロシア人から聞き取ったものと考えてよいことになる。ソウヤの東サンナイからカラフトのシラヌシまで「水行十七八里(約六十八~七十二キロメートル)ある」というのが事実に近いと思われた。

 また、ロシアに関する記述もかなり信憑性(しんぴょうせい)に富むものとなる。

『ヲロシアは、欧羅巴(ヨーロッパ)東北で亜細亜(アジア)の州境にあり、ムスコウビア(モスクワ)は昔の国都で、今はペテルホールを首都とする。カムサスカ(カムチャッカ)はその属国である。国名をヲロシアと言い、その民をロスコイと言う。南下する時に船を発する港をヲホツカ(オホーツク)と言い、北風を利して松前東北の蝦夷地にいたる。その水行はおおよそ百余里(約四百余キロ)となる。
 ヲロシア国は、かなり寒く、粟や麦がとれる。皮革も得られる。人口も多く、強大な力を持っている。人々の特徴は、鼻が高く、服飾や器材はオランダ人と同じである。砲術に優れる。俗に赤人(あかじん)と言う。和人はオロシャ人と呼ぶ』

 工藤平助が『赤蝦夷風説考』を著したのは天明三年(一七八三)のことで、初めて北方にオロシャという大国があることを世に知らしめた。しかし、松前藩の一部の者は、それより前、安永八年頃までにはロシアについてかなり正確に知っていたことになる。

 伝次郎が引っ掛かりを覚えたのは、松前藩士がなぜロシア人と会話できたのかという点にあった。安永年間にロシア語も和語も話せたとすれば、ロシア人を蝦夷地に案内してきた東蝦夷地の先住民だけである。彼らは、ロシア人とも、日本の商人とも交易を行っていた。彼ら以外にはロシア人と松前藩士の通辞を務められる者はいない。

 

『松前志』本文で伝次郎が取り分け興味をかき立てられたのは、海難によって吹き流されカラフトに漂着しながら翌年に松前まで帰り着いた日本人漂流民に関する記述だった。

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飯嶋和一(いいじま・かずいち)

1952年山形県生まれ。83年「プロミスト・ランド」で小説現代新人賞を受賞しデビュー。88年『汝ふたたび故郷へ帰れず』で文藝賞、2008年『出星前夜』で大佛次郎賞、15年『狗賓童子の島』で司馬遼󠄁太郎賞を受賞。18年刊行の最新作『星夜航行』は、第12回舟橋聖一賞を受賞。

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