◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第7回 前編

◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第7回 前編

『松前志』の記述に引っ掛かりを覚える伝次郎。玄六郎が蝦夷地で接触した先住民は──。

 

 伝次郎が注目した三枚目の地図の下には、「加藤氏これを考(こう)す」の書き込みが入っていた。その地図では、蝦夷本島も、カラフトも、ひとつの島として示されていた。「リンカ」と「チリコフ」という航海士の名も、「キタイスカヤ」など地名の呼び名もロシア風であり、松前藩士らしき「加藤」なる人物がロシア人の航路を考案できるはずもなく、ロシア人が持っていた地図を書き写したに違いないと伝次郎は思った。

 ロシア人と松前藩士が接触したのは、安永七年(一七七八)と翌八年のことだった。ロシア人は、通商を求めて安永七年にノッカマップ(納加麻布)、そして翌年にはアツケシ(厚岸)に渡来した。もし「加藤」という人物が、その地図を手に入れたとすれば、松前藩が返答を約束した安永八年(一七七九)、アツケシで対面した折ではなかったかと思われた。

 その「加藤」という人物について、『松前志』の本文によれば、『三十年前、士人に加藤氏なる者がいた。松前地方、東西夷人(いじん)の住む場所に限らず、北部カラフト地方にしばしば行き、かの地の地勢や風俗を語った。その頃わたしは壮年だったので、好んでその話を聞いたのだが、昔より今にいたるまでわが(松前の)国境を定められないのは、カラフトが極北にあるためはっきりさせることが難しいのだと語った』と述べられていた。安永八年にその加藤が渡来したロシア人とアツケシで会ったとすれば、三十年前にいた松前藩士という松前廣長の記述もかなり疑わしい。「加藤」なる人物を特定されまいとする作為を感じた。

 いわゆる「鎖国」と呼ぶ海外渡航の禁は、あくまで日本人が南方の諸国に交易などで渡航することを禁じたもので、北方への渡航は全く考慮されていなかった。しかし、ひとつ間違えれば幕府から拡大解釈され、「北部カラフト地方にしばしば行った」ことが、いかなる罪に問われるかわかったものではなかった。そのため「加藤」なる人物についてもあいまいにする必要が生じたに違いないと思われた。

 松前藩士について伝次郎が調べようとすれば、さほど難しくなかった。丸屋勝三郎(まるやかつさぶろう)はかつて勘定組頭の土山宗次郎(つちやまそうじろう)の屋敷によく出入りしていた。土山は、勘定所役人でも松前や蝦夷地について取り分けくわしい人材とされ、このたびの蝦夷地探索方派遣においても勘定奉行の松本秀持(まつもとひでもち)から蝦夷地に関する情報を求められ、報告書を提出しているほどだった。土山は、蝦夷地情報を元松前藩の勘定奉行だった湊源左衛門(みなとげんざえもん)から得ていた。丸屋はその湊源左衛門もよく見知っているらしく、この「加藤」なる人物について聞き出せるのではないかと思った。

 

 松前藩勘定奉行だった湊源左衛門が、幕府評定所によって重追放を言い渡され、江戸に隠れ住むことになった「松前一件」と呼ばれる事件も、蝦夷地交易にからむ不可解なものだった。伝次郎が丸屋から聞いた限りではこんな話だった。

 享保十七年(一七三二)の飢饉後、松前藩の財政はいよいよ困窮し、藩出入り商人からの借り入れ金に頼るしかなくなった。

 とくに飛驒屋久兵衛(ひだやきゅうべえ)からの借金は、安永二年(一七七三)時点で八千二百両近くにのぼり、飛驒屋から求められるままに、松前藩は、エトモ(絵鞆)、クナシリ(国後)、キイタップ(霧多布)、アツケシにいたる東蝦夷地の交易商場を彼に任せることにした。飛驒屋は、商場一カ所につき年に二百七十両を松前藩に納め、運上屋(うんじょうや)と称する商い小屋を建てて先住民との交易を二十年間独占する権利を得た。松前藩は、その間の運上金五千四百両を前渡しで受け取ったことにし、残る二千八百両は棒引きにすることで話をまとめた。その後も、松前藩の飛驒屋に対する借金はかさみ、西蝦夷地のソウヤ(宗谷)も、運上金百九十両、十五年間の年季で飛驒屋に任せ、その間の運上金を前納したことにし借金を返済した形とした。

 松前藩士は、自分の知行(ちぎょう)地の境界すら満足に知らず、交易商場を預けた商人から献上される運上金ばかりを気にかけて、為政者としての意識など持ち合わせなかった。飛驒屋の莫大な収益を見るにつけ、松前藩は飛驒屋に任せた東西蝦夷地の商場を奪い返すことを思いついた。

 安永八年(一七七九)九月、松前藩は、南部屋嘉右衛門なる豪胆な商人を藩士に取り立て、その者を使って飛驒屋の船を突然臨検し、不正交易を理由に財貨を没収した。飛驒屋の船頭はこれを苦に自殺し、松前藩は飛驒屋の交易商場を思惑どおり召し上げようとした。

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飯嶋和一(いいじま・かずいち)

1952年山形県生まれ。83年「プロミスト・ランド」で小説現代新人賞を受賞しデビュー。88年『汝ふたたび故郷へ帰れず』で文藝賞、2008年『出星前夜』で大佛次郎賞、15年『狗賓童子の島』で司馬遼󠄁太郎賞を受賞。18年刊行の最新作『星夜航行』は、第12回舟橋聖一賞を受賞。

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