◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第6回 後編

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伝次郎が田沼時代の終焉を思う一方、幕府御用船は蝦夷島を目指して出航する。

 七三年(安永二)、ロシア人がこれまで以上の大船でウルップ島に到来したため、先住民はラッコ猟を中止しそれぞれが早々に帰島した。ところが、その後、このロシア大船は強風に押し流されウルップ島の西浦で座礁、破船することになった。その時乗船していたロシア人十名が溺死し、島に上陸していた二十数名は無事だったものの、帰る術を失った。難破したロシア船の乗員はウルップ島の西浦に滞留を余儀なくされ、食糧不足からエトロフ島の先住民に贈り物をして和睦を願った。千島先住民とロシア人との交易がここに開始された。

 七六年(安永五)、ロシア大船ナタリア号がウルップ島東浦へ来航し、同島西浦で滞留を強いられたロシア人はこの船に乗り移った。以後、千島列島はラッコ毛皮の交易市場となり、ロシア人は主な交易品として刃物や鍋、ヤカンなどの金属製品とガラス玉(青玉)を先住民にもたらした。

 これらロシア人との交易を背景に、安永七年と翌八年、ツキノイはロシア人を先導してノッカマップとアツケシにいたり、松前藩に通商を申し入れさせた。松前藩は、異国貿易は国禁であるとして拒絶しながらも、後難を恐れ幕府には一切報告せずにもみ消した。

 

     二十
 

 六月の声を聞くとまもなく松前に神通丸と五社丸が到着した。堺屋市左衛門は、苫屋の代理として蝦夷地における交易品を予定通り松前で買いそろえ、それぞれの船をキイタップとソウヤへ送る手はずをととのえた。

 堺屋は、これまでの経験から東蝦夷地における交易がとりわけ有望であると知っており、神通丸に加えて「自在丸」を雇い入れ、この二隻をキイタップへさし向けることにした。帆走の弁財船は、渡島半島の西端に位置する松前から東蝦夷地のキイタップ・アツケシ・クナシリ島方面に直行するには風向きが悪く、いったん南下して下北半島の佐井へ寄港し、そこで日和(ひより)をうかがってから北上しなくてはならなかった。神通丸の船頭太兵衛は、この時も南下して津軽海峡を渡り、佐井湊(さいみなと)に入って北航の機会を待った。

 佐藤玄六郎は、蝦夷地探索方の指揮役として松前にとどまり、御用船二隻の到着を待っていた。五社丸に交易品を積み込むと、佐藤玄六郎は下役の鈴木清七を伴い五社丸に乗ってソウヤへ向かった。蝦夷地の冬を告げる長雨が始まれば、海も陸も風景が一変する。御用船の竣工が遅れ、探索方が蝦夷地で活動できる期間は、わずかしか残されていなかった。

 

 五社丸に同乗して佐藤玄六郎と下役の鈴木清七がソウヤに着いたのは六月半ばだった。普請役の庵原弥六は、佐藤玄六郎に後を任せ、予定通りカラフト検分に出発することを決めた。しかし、ソウヤからカラフトの南端にあるというシラヌシ(白主)の港までどれほどの距離があるのかさえ定かでなかった。元禄元年(一六八八)のころ松前藩の蠣崎伝右衛門(かきざきでんえもん)なる人物は「水行七里」と書き記し、加藤某なる藩士の三十年ほど前の話では「水行十七八里」という。倍以上も距離が違っている有様だった。

 松前廣長(ひろなが)によって天明元年(一七八一)に上梓された『松前志』が、北方と蝦夷地について書かれた最も信用のおける新しい書物だった。松前廣長は、二代前の藩主志摩守邦広(しまのかみくにひろ)の九番目の子で、家老職にあった人物である。彼は文武にひいで知識欲も旺盛で、先に坂倉源次郎が著した『北海随筆』の誤りと偏見が多いことに憤り、自ら筆を取ったといわれていた。しかし、幕府から派遣された普請役を警戒してか、松前においても十巻からなる『松前志』のうち半分以下の四巻しか手に入れられなかった。とくに探索方にとって必要な北方の地理に関する第二巻が欠けていた。

 松前藩から付けられた案内人や蝦夷語の通辞も未知のカラフトへ渡ることには恐れをなし、庵原は下役の引佐新兵衛と鈴木清七だけをともない、カラフトに渡ったことのあるソウヤの先住民を水先案内人として、幕吏として初めてとなるカラフト踏査に挑むこととなった。

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飯嶋和一(いいじま・かずいち)

1952年山形県生まれ。83年「プロミスト・ランド」で小説現代新人賞を受賞しデビュー。88年『汝ふたたび故郷へ帰れず』で文藝賞、2008年『出星前夜』で大佛次郎賞、15年『狗賓童子の島』で司馬遼󠄁太郎賞を受賞。18年刊行の最新作『星夜航行』は、第12回舟橋聖一賞を受賞。

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