◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第5回 後編

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幕府による蝦夷地開発は将軍家治の決裁に──。伝次郎は佐竹曙山の死を知る。

 

 秋田藩主の佐竹義敦(よしあつ)が六月一日に江戸下谷三味線堀の上屋敷で病没した。まだ数え三十八歳の若さだった。

 佐竹の殿様といえば、江戸の文人の間では、右京大夫(うきょうだゆう)の官名より画号の曙山(しょざん)で通った。町衆においては、出羽秋田(久保田)二十万五千八百石の名門藩主としてよりも、困窮する藩財政を顧みず西洋画ごときにうつつを抜かす馬鹿大名の見本として語られた。

 佐竹曙山は秋田の領民はもとより藩士からの人望もなかった。江戸藩邸出入りの商人たちは、家臣に毒を盛られた、あるいは隅田川で川遊びの最中に家臣から突き落とされ溺死したなどの、たわけた噂を真に受けているほどだった。江戸詰めの秋田藩士たちは、殉死どころか疫病神(やくびょうがみ)がやっと消えてくれたこの幸いに、正月が二度来たかのような晴々とした顔をしているという。

 領国の秋田は、海風をまともに受けるせいか大難にたびたび見舞われた。宝暦七年(一七五七)の火災で久保田城下の千二百八十八軒を焼き、曙山が十一歳で藩主に就いた宝暦八年以降も、翌九年の大水害、明和四年(一七六七)の城下千八百軒を焼く大火、同六年には城下の五百五十九軒を焼失と厄災が続き、明和七年の火事では久保田城をほとんど焼失することになった。やっと城を再建した安永七年(一七七八)に、またも久保田城が全焼する火難に遭遇した。天明三年(一七八三)三月には城外町の大火で千九百五十六軒を焼き、同年九月には仙北(せんぼく)郡六郷で打ちこわしの暴動が吹き荒れた。享保十六年(一七三一)に財政赤字は一万千五百両だったが、連年の凶作が追い打ちをかけ、越年の赤字は曙山の参勤交代を難しくするほどだった。

 

 加瀬屋伝次郎(かせやでんじろう)が佐竹曙山逝去の事実を知ったのは、曙山没後十日を過ぎてからだった。

 丸屋勝三郎(まるやかつさぶろう)がやって来たのを機に「佐竹曙山公が亡くなられたとか」と伝次郎は話を向けた。「そうらしいですね」と丸屋はそっけなく返しただけで、何ら感慨めいた語を漏らさなかった。

 丸屋が秋田藩邸に出入りし、曙山から西洋画法の絵師として格別の客人扱いを受けていたことは、伝次郎も聞いていた。丸屋が西洋人の男女を描き、曙山がその背景に松や冬枯れの梅枝を描き添えたこともあったという。しかし、秋田藩から曙山が逝去したとの報ひとつ丸屋には届かなかった。江戸詰めの秋田藩士にとって、丸屋は藩主の道楽相手のひとりでしかなく、宴席に呼ばれたタイコ持ち同然だった。丸屋自身も、何人かの大名から席画会にたびたび呼ばれるようになったものの、かつてのようにそれを公言し自慢するような馬鹿なまねをしなくなった。丸屋はこの年三十九歳を数えた。「江漢(こうかん)」の画号は、漢画の絵師として知る人ぞ知る存在となり、食にこと欠くようなことはなくなっていた。

 この日、丸屋勝三郎は、何とかいうオランダ人絵師の銅版画集を大金を投じて手に入れたことを上気した顔で伝次郎に語った。オランダで下層の職人たちが営むさまざまな仕事の場を描いたものだという。単なる風景図から人々の暮らしの有様を描く方向に進めば、腐食銅版画の細微な線は丸屋の資質をより開花させる気がした。

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飯嶋和一(いいじま・かずいち)

1952年山形県生まれ。83年「プロミスト・ランド」で小説現代新人賞を受賞しデビュー。88年『汝ふたたび故郷へ帰れず』で文藝賞、2008年『出星前夜』で大佛次郎賞、15年『狗賓童子の島』で司馬遼󠄁太郎賞を受賞。18年刊行の最新作『星夜航行』は、第12回舟橋聖一賞を受賞。