辛酸なめ子「電車のおじさん」第10回

辛酸なめ子「電車のおじさん」第10回
外山先輩に脳内恋愛をしている玉恵。
念じていれば縁を引き寄せるのか、
外山先輩と一緒に打ち合わせに出かけることに…。

「最近どうしたの、何かいいことあったんじゃない?」

 鈴木先輩に声をかけられ、玉恵はドキッとしました。

「やっぱりあのローズクオーツの効果があったんじゃない。いいなあどこ産? 私の指輪の石、どうもくすんでるんだよね……」

 と、鈴木先輩が見せてきた指輪のローズクオーツは、素人目にもくすんでいるというか、輝きが感じられません。よほど、鈴木先輩の煩悩や邪気を吸い込んでいるのでしょうか。

「鈴木さんの石、ちょっと元気なさそうですね」

「そうなの。水晶のクラスターかセージで浄化したいんだけど買いに行くひまがなくて……」

 そんな雑談をしていると、視界の先に外山先輩の姿が見えました。メガネをかけて、クルーネックのニットにほのかに知性を感じさせる先輩。顔は……フツメンの中のフツメン。しかしフツメンほどだんだんハマる味わい深さがあります。玉恵は1秒ほど姿を確認すると、パソコンのモニターに目を落としました。完全にプラトニックラブで終わらせるためにも、相手に気付かれないことが重要です。妄想の中だけで完結しなければなりません。まちがってもリアルな恋愛関係という、リスキーな状況には陥らないようにしたいです。外山先輩と深い関係になるなんて……玉恵には想像できませんでした。こう言っては失礼ですが、無理です。相手の関心がこちらに向くか向かないかのところでさっと身を引きたい。それまではプラトニックな距離感を楽しみたいです。プラトニックラブの利点は、生活に張り合いができるということ。職場プラトニックラブの場合は眠気覚ましや仕事のモチベーション向上にもつながります。女性ホルモンが分泌され美容効果があるということ、駆け引きや肉体関係でエネルギーを消費しないこと、などでしょうか。

 念じていれば縁を引き寄せるのか、この日、外山先輩と一緒に打ち合わせに出かける用事がありました。下町の印刷会社へ行くのは、もちろん経費的に電車移動は当然なのですが、地下鉄の照明は女性の肌に厳しくて、とくに窓に映る顔はプラス10歳ほど老け込んで見えることが知られています。玉恵はつい意識してしまい、窓ガラスに映り込まないよう、顔をふせていました。気付いたら、周りの乗客は皆マスクをしていて、顔の表情がわかりません。日本人はいつからこんなにマスク好きの民族になってしまったのでしょう。誰もが目立たないように、無難に生きようとしていますが、そんな電車の中でも声を荒らげたり感情をあらわにする高齢者世代との感覚のギャップを感じずにはいられません。ふと、電車のおじさんを思い出しました。

 すると、クールな若者世代のはずの外山先輩が「あーっ!」と隣で声をあげたので、玉恵はビクッとしました。

「今日、先方に持っていく予定の書類を忘れた。どうしよう……。クラウドにあるデータをダウンロードするしかない。あの、すまないけど印刷会社の近くにスタバかタリーズかWi‐Fiがあるカフェがないか検索してくれないかな?」

「は、はい。了解です!」 緊急事態を察知し、震える手でスマホを操る玉恵。自分のスマホで検索すればいいのにという思いも浮上しましたが……。

「すみません、押上だとスカイツリーの中にはカフェがいくつかありますが、行こうとしている会社からはかなり距離があります。近くには……純喫茶がありますが、Wi‐Fiなさげです」

「どうしよう、もう今月ギガを使い切って速度制限がかかってるんだよね」

 外山先輩の契約が月何ギガか知りませんが、何にそんなに使っているのか気になります。玉恵はメールとLINEと、ネット検索とニュースアプリくらいで、まだ通信容量が残っていました。

次回更新予定日

 


 

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辛酸なめ子(しんさん・なめこ)

1974年東京都生まれ。漫画家、コラムニスト、小説家。近著に『辛酸なめ子の世界恋愛文学全集』『大人のコミュニケーション術 渡る世間は罠だらけ』など。最新刊に『ヌルラン』がある。