藤岡陽子さん『満天のゴール』

小説では、人生を肯定的、
前向きにいいものとしてとらえていたいんです。

京都府出身・在住の藤岡陽子さんは、たびたび小説の舞台にこの場所を選ぶ。また、看護師でもある彼女にとって、医療現場も身近な場所だ。新作『満天のゴール』はそんな彼女が大切にするモチーフの詰まった、胸に迫る長篇となっている。

ふじおかさん

丹後地方の医師との出会い

 

 京都府の北部、丹後半島にある、海と山に囲まれた小さな町。藤岡陽子さんの新作『満天のゴール』はそこが舞台だ。

「私が育ったのは京都市内ですが、車で1時間半ほどで行けるくらいの場所です。最近、医療過疎の状態になっていて、以前から気になっていました」

 看護師免許を持ち、今も週に1、2回勤務している藤岡さん。そんな彼女には、以前から気になっていた新聞の地域欄のコラムやエッセイの書き手がいた。

「京都府立医科大学附属北部医療センターの医師であり、丹後半島の伊根診療所の所長の石野秀岳さん。書かれている内容が作家としても、看護師としてもとても興味深くて、よく読んでいて。でもお忙しい方だから取材するのは無理だろうと思っていました。そうしたら、ある時、ママ友の医師の方が、“石野君とは同級生だった”って言うんです(笑)。これはもう運命だと思いました」

 石野さんに取材を敢行、地域診療にも同行した。そうして膨らませて出来上がったのが本作というわけだ。

 

ある日突然シングルマザーに

 

 ただ、主人公は医師ではない。丹後半島で生まれ育ち、結婚して都会に住んでいた専業主婦の奈緒だ。二十二歳の時に実家を出て、三十三歳の今まで疎遠にしていた故郷だが、彼女は十歳の息子、涼介を連れてこの町に戻ってくる。夫に別の女性がいることが発覚、離婚を切り出されたために、夏休み中の涼介を連れて現実から逃れてきたのである。

「東京で何の不自由もなく暮らし、地方の医療過疎問題から遠いところにいた主人公がポンとその環境に放り込まれたほうが、地域というもののよさも厳しさも、読者に伝わるように描けるのではないかと思いました」

 故郷はすっかりゴーストタウン化している。実家では父の耕平が一人で暮らしていたが、彼が交通事故で骨折して、地元の唯一の総合病院に入院してしまう。そこは奈緒たちが母親を看取った場所でもある。

 父親の入院費もかかるが、奈緒に蓄えはない。認めたくはないが離婚はもう確定的。窮地に立たされた奈緒は、医師の三上に勧められ、看護師として病院で働くことに。実は彼女、看護師免許は取ったものの一度も勤務したことはない“ペーパーナース”だ。

「三十代、四十代で、それまで信じていたものがポキリと折れることはある。ずっと専業主婦で就職したこともなく、丸腰で生きてきた女の人が、そこから立ちあがる話を書きたいと考えていました」

 奈緒が免許を取りながらも看護師にならなかったのは、母親の死に関するある出来事で、この仕事に失望したからだ。

「いってみれば看護師になれたのにならないという選択をしたわけです。でも今の奈緒は、息子のためにも、やりたくないことをやらなければいけない事態に直面している。その覚悟も書きたかった。あれほど嫌っていた職業だけれども、やっていくうちに仕事に対して自分なりの誇りが芽生えていく設定にしたかったんです」

 奈緒や三上が勤務する海生病院は総合病院だが、病床は四十七と都市部に比べて規模は小さい。また、丹後半島には三つの診療所があったが二つはすでに閉鎖されており、最後のひとつが閉鎖されると聞いて所長との兼任を引き受けたのが三上だ。彼のモデルが石野さんである。三上は多忙を極めるなか、来院が困難な独居老人の往診もしている。鹿などの野生動物が横切る、夜は真っ暗な道を運転して、一人一人を訪ねる道中に奈緒も同行し、過疎地の医療の現実を目の当たりにする。

 だが、描かれるのはその厳しさよりも、一人一人との交流を大切にする人間関係の温かさ、自分の最期に向けて真摯に生きる老人たちの前向きな姿勢だ。

「実際に石野ドクターがそういう活動をしているんです。集落の老人を定期的に集めて、在宅でできることをレクチャーしたり、どういう最期を迎えたいかグループセッションをしたり。死を恐れない、というテーマで取り組んでいらっしゃるんです」

 たとえば奈緒たちが訪ねる老人の一人、八十八歳のトクさんは前立腺癌が見つかったが、本人の希望で自宅療養中。往診のたびに、三上から星の形をしたシールをシートに貼ってもらっている。それは日々頑張っている証でもある。彼は「先生、ゴオルまであとどのくらいやろか」「それやったら最後まで走れそうだな」と話す。ゴオル、つまりゴールのことだ。三上から聞いた、死ぬことを『ゴール』と表現するという話が気に入ったという。

「シールは私のオリジナルですが、死をゴールという表現は私もアメリカの先生がそう言っていた、という話を耳にしたんです。私自身も、ゴールと思えば死が苦しくて湿っぽいもの、訳の分からないものではなくなるように感じました。人それぞれが自分の望むゴールの仕方を考えていく様子も書きたかったことです」

 そのゴールに向かって並走するのが医師や看護師、家族や周囲の人々というわけだ。家族と離れて暮らす老人も多く、決していちばんの理解者が家族とは限らない。

「家族でなくても、誰かに支えられて人は生きている。医療の現場にいる身としてもそう感じます。家族でなくても、人と人が関わる限り、そこに思いは生まれるものだから」

 

それぞれの苦い過去

 

 三上は、丹後の出身ではない。彼はなぜこの土地に来たのか、それにも理由がある。彼の少年時代のエピソードについては、石野氏の来歴とは異なりフィクションだ。

「三上先生の過去についても、小説を書く時のひとつのテーマでした。子どもって、賢い子ほどしんどいだろうなと思うんです。うちは貧乏だけど親も大変だから我慢しなきゃと自分を抑えたり、親が離婚したら何か自分が悪かったんじゃないかと思ったりしてしまうから。そういう子は潜在的に多い気がするので、登場させたかったんです」

 今、三上が医師として奔走しているということは、彼が少年時代の困難を乗り越えてきたという証でもあるが、

「どんな状況であっても、自分の意志と頑張り次第で人はまっとうに生きられる、という思いを三上先生に託しました。家族に恵まれなくても、家族以外の誰かがいたから生きていける、というメッセージを書きたかったんです」

 気さくで誠実、そして並々ならぬ精神力と体力で医療に臨んでいるものの、どこか陰のある三上。終盤、奈緒が彼にかける言葉がいい。

「どういう言葉を言えば、この先生を救えるんだろうと、ものすごく考えました。それで、ああいう、母親としての立場から言った言葉になりました」

 もちろん、奈緒自身も少しずつ、精神的にたくましくなっていく。

「もともとすごく繊細で芯のある女の人ですが、お母さんが死んでしまった時に気分が沈んでしまったんですよね。その時は立ち上がれずに、自分よりも年上でなんでも指示をしてくれる男性と結婚して、立ち向かうしんどさを手放してしまった。専業主婦として夫や子どもに尽くす暮らしを選んだんですけれど、いろんなことが起こって変わらざるを得なくなる。そこで、本来の彼女を取り戻してほしかった。自分の周囲にも離婚してシングルマザーになった人たちがいて、珍しいことではないと感じていました。そこからどうやって立ち上がるのかも考えていたことです」

 困難が続くなか、救いとなるのは、小学四年生の涼介がお母さん思いの優しい子であること。

「奈緒がウジっとした性格なので、彼女にないものを持っている子どもにしました。うちにも同じ年の息子がいます。息子を見て、この年頃の子はこういうことを言うか言わないかを判断していました。涼介君が昆虫好きというのは、うちの息子がそうだから(笑)。基本的に男の子って、母親に優しいですよね。お兄さんになりかけているけれども、まだ母親と手を繋いでくれる年頃。三上先生が過去に辛い体験をしたのも小学五年生という設定にしましたが、この頃がいちばん、男の子が母親的な存在に優しさを素直に出す年頃だと思ったからです」

 やがて、奇跡的な再会も描かれ、老いも若きも、優しさを交換しながら支え合っている姿が浮かび上がってくる。

 これまでも藤岡さんは、人生の半ばで挫折を味わい、それでもリスタートを切る人たちを描いてきた。

「現実には新聞を読めば辛い出来事がたくさん書かれていますよね。だから小説では、人生を肯定的、前向きにいいものとしてとらえていたいんです。人のいいところを見つめていきたい気持ちはつねにあります。世の中には苦しいこともいっぱいあるけれども、そこにとらわれるのではなく、いいこともあるんだと信じて自分も生きていきたいし、そういう本を読んでもらえたらと思います」

 人は人と関わり合い、支えながら生きていけるのだということ、そして自分なりの満天のゴールを目指して歩んでいけばいいのだと、優しく伝えてくれている本作。藤岡さんらしさのつまった一冊である。

 

(文・取材/瀧井朝世)「きらら」12月号 きらら特別インタビュー 掲載

 

 

 

藤岡陽子(ふじおか・ようこ)

1971年京都府生まれ。同志社大学文学部卒業。報知新聞社を経て、タンザニア・ダルエスサラーム大留学。慈恵看護専門学校卒業。2006年「結い言」で第40回北日本文学賞選奨を受賞。09年『いつまでも白い羽根』でデビュー。著書はほかに『海路』『トライアウト』『ホイッスル』『波風』『晴れたらいいね』『手のひらの音符』『闇から届く命』『おしょりん』『テミスの休息』などがある。

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