ロスねこ日記 ◈ 北大路公子

第18回 カラスの宝物(後篇)

●八月七日

 あんなに熱く語ったのに、ローソクもらいは我が家に来なかった。遠くで歌声だけが聞こえた。

●八月九日

 朝のうちは晴れていたが、午後から急に雲行きが怪しくなって雨。近所の「窓から洗濯物を下げている太陽神信仰のお宅」、略して「太陽宅」の洗濯物がしょぼしょぼと濡れている。静かな雨なので気づいていないのか、あるいは外出してしまったのか、いずれにせよ心配でならない。お気に入りであろう二枚組のグレーのTシャツも雨に打たれている。そう、毎日よそ様の洗濯物を眺めるうちに、なんとなくお気に入りの服までわかってしまったのだ。ストーカーっぽい。そんな自分が嫌だが、でも我が家からとてもよく見える場所なので、つい見入ってしまう。怖い。この町内には戸籍抄本だか謄本だかをそのまま捨てる人も、洗濯物をオープンにする人も、そしてそれをじっと見ている私もいるのだ。怖い。私が一番怖い。

 というようなことばかり書いていると、なんだかものすごく暇な人みたいだが、実際はバタバタしている。父の病院からの呼び出しやら転院準備やらケアマネさんとの打ち合わせやらで、細かい用事が途切れない。そのせいで、じわじわと仕事の時間も削られているのだ。父はヘルニアが治まって歩けるようになれば帰れるらしいが、なにぶん我が家の玄関が二階にあるのでハードルが高いのだ。「だからもっと考えて建てろって言ったのに!」と母が三十年以上前のことを持ち出して怒っている。

 水やりの時、ジンジャーとエールの葉っぱの先が少し茶色くなっているのに気がつく。病気の前兆かもしれないとネットで調べてみると、さまざまな生姜の病気が目について急に怖くなった。斑点ができたり、根がどす黒く腐ったり、葉がカスカスになったりと、どれもが胸痛む写真だ。もし、ジンジャーとエールがこんな病気に罹ったらどうしようと、見ているだけで悲しくなる。なにしろスプラウト兄弟と違って外で暮らす身なのだ。病気以外にも、カラスの復讐や嵐にも気をつけなければいけない。私一人で守り切れるだろうか。葉っぱのことをK嬢に伝えると、「水分が足りないのかも」と教えてくれた。この雨で不足分が補えますように。

●八月十一日

 来るべきお盆に備えて母と買い物に行く。レジを済ませたところで花を買い忘れたことに気づき、母が買いに走ってくれたが、いつまで経っても戻ってこない。心配になって捜しに行くと、店員さん二人に支えられて悄然と立っていた。

「転んじゃった……」

 どうやら右肩を強打したらしく、かなり痛そうだ。一瞬にして最悪の可能性「骨折→入院→手術→あるいは自宅療養→年寄り二人の世話に忙殺→仕事が今以上に遅れる→クビ→無職→絶望→どうせ死ぬならその前に全財産を手に全国カニ三昧の旅」が浮かんで、今すぐ飛行機のチケットを予約したくなったが、さすがに思いとどまる。時刻はお昼前。土曜日なので、急げば近所の整形外科の午前診療に間に合うかもしれない。そう考えて病院へ向かうもあなた、なんと今日は祝日だというではないですか。

「祝日って何でだよ!」

「山の日だよ!」

「何だよ山の日って!」

 グーグル最高顧問とのやりとりも喧嘩腰である。本当に昨今の祝日事情には混乱させられる。ハッピーマンデーとかいうものが登場したあたりから、わけがわからなくなった。ハッピーマンデー。その響きも妙に胡散臭い。どこかの宗教詐欺師が発行する債券みたいだ。「この『ハッピーマンデー債』を百万円分買えば! あなたの幸福度は百万ハッピーハッピー!!」とか言いそうである。

 政府に悪態をつきつつ、当番病院へ。診察を待っている時、先に診察室に入った若い男性が獣の咆哮のような声を上げて、待合室の人々を固まらせた。

「うおおおおお!」

「うわあ!」

「うわうわうわうわ!」

「ぐあああああああ!」

 ひとしきりの咆哮の後、男性は入った時より二十歳くらい老けて出てきた。腕に包帯をぐるぐると巻いて、悄然としている。本日、二人目の悄然とした人である。人は怪我をすると悄然とするものなのかもしれない。母も二十歳老けて百歳になるかと心配したが、咆哮するような処置は何もなく、けれども検査の結果はやはり骨折であった。ただ手術が必要かどうかは微妙で、週明けに近くの病院で改めて診察を受けるように言われる。瞬間、カニの旅が再び頭をよぎり、今の時期はどこでカニは獲れるだろうと考えていると、看護師さんが母の腕をベルトで固定して三角巾で吊ってくれた。

「これだけですか?」

「これだけです」

 これだけではあるが、利き腕がしばらく使えないことは明らかだ。つまりは家の中のことはもちろん、着替えも入浴も食事の世話も全部私である。カニである。「いやあ、まいったなあ」とつい口に出す。「ごめんね」と謝られてしまった。

 会計時、ロビーの自動精算機が妙に色っぽいことに気づく。「精算が終わりましたん。うふん。お大事にねぇん」という感じだ。帰宅してグーグル最高顧問に尋ねると、色っぽい精算機の報告が各地で上がっているようだった。何かのサービスなのであろうか。

●八月十三日

 早朝お墓参りの後、母を連れて近くの整形外科へ。骨のズレがギリギリ手術適応外ということで、通院で治すことになった。通院で治すというか、要は固定して骨がつくのを待つのである。その期間、六週間。頭の中でカニがぐるんぐるんしていると母が突然、

「先生! 私、入院したいんですよね! 手術して入院させてください!」

 と言い出す。家にいて私に世話をかけるより、入院したほうが迷惑がかからないと考えての発言であろう。気持ちはありがたいが、どう聞いても「虐待して怪我をさせた娘から逃げたい高齢者」になっている。入院は認められなかった。

●八月十七日

 ジンジャーとエールのことを全然書いていない気がするが、でも二人は相変わらず元気である。葉先の茶色は気になるものの、さほど広がりを見せていない。雨が続いているので、水分をうまく補給してくれればいいと思う。それにしてもこの慌ただしい日々の中、ジンジャーとエール(そして皆様お忘れかもしれませんが、まいたけの「きせのさこ」)の手のかからなさに救われている。最初に猫を飼った時、犬に比べてなんと自己完結した動物なんだと感動したが、それ以上の自己完結ぶりである。トイレ掃除もブラッシングも不要なのだ。

 昼間、出かけようと戸を開けると、玄関前の手摺にカラスが一羽止まっていた。

「ふ、復讐かっ?」

 あまりの至近距離に一瞬ひるんだが、カラスはすぐに飛んで行ってしまった。見れば、やつのいた場所に何かプラスチック片のような物が落ちている。プリンか何かの容器のようだ。慌てて忘れていったのだろうか。「プラごみ」に出そうかと思ったが、やつの宝物かもしれないのでそのままにしておいた。

(つづく)
〈「STORY BOX」2019年6月号掲載〉
 

連載最新話は「STORY BOX」で!
毎月20日発売

 
▼定期購読のお申し込みはこちら
ストーリーボックス定期購読へ