◆読み切り小説◆ 早瀬 耕「彼女の知らない空」

◆読み切り小説◆ 早瀬 耕「彼女の知らない空」
改正憲法が施行されて、初めての冬──
智恵子は優しい笑顔で「おかえりなさい」と言ってくれるだろうか。

 ぼくは、官舎前で基地司令の公用車を見送って、夜空を見上げた。低い雲から、細かい雪が落ちてくる。千歳基地への配属は二度目で、都合五度目の十一月になるが、何度過ごしても冬の訪れは気を滅入らせる。最初の千歳配属時はまだ二尉で、F ‐ 15イーグルのパイロットだったから、十一月の厚い雲も三十秒足らずで突き抜けて、青空を見ることができた。三佐に昇格したいまは、パイロット・スーツを着ることもなく、雲の中に吸い込まれていく機影を追いかけることしかできない。

 夜の雲を見上げながら、智恵子はぼくを許してくれるだろうかと不安になる。

 数分後には智恵子の待つ官舎のドアを開けているはずだ。彼女は、優しい笑顔で「おかえりなさい」と言い、脇に抱えた制帽を受け取ってくれるだろう。彼女の「おかえりなさい」の言葉の裏には、自衛官の妻として「今日も無事でよかった」という思いが込められている。

 智恵子は、ぼくが自衛官ではなく職業軍人になっても、同じように「おかえりなさい」と優しく言ってくれるだろうか。

(考えても仕方がない……)

 改正憲法が施行されて、初めての冬だ。ぼくは、ため息を呑み込んでから、ドアのチャイムを鳴らして帰宅を彼女に報せる。

「おかえりなさい」

 智恵子が、ドアを開けて、優しい声で礼装のぼくを迎えてくれる。

「ただいま」

 ぼくは、暖かい部屋の空気とともに彼女の優しさが外に逃げ出す前に、ドアを閉めた。

「ドリア、温めるだけにしてあるけれど、食べる?」

 ぼくは、うなずいて、着替えのために寝室に行く。智恵子とは上官の紹介で知り合って結婚した。当時、義父は二等海佐で、航空自衛隊と海上自衛隊の差こそあれ、彼女は、幹部自衛官の妻として、やるべきこと、やってはならないことを知っている。四十代後半までは転属が多く官舎生活が当たり前のこと、夫婦の旅行も事前に行程を報告しなくてはならないこと……、そういった様々な非常識を知っている。そんな夫婦生活を望む女性は少ないと思う。けれども、航海に出れば、何ヶ月も父親が不在の家庭で育った智恵子にとっては、ほぼ毎日、隣接する基地から帰宅するぼくは、父よりも幾らかは魅力的だったのかもしれない。

 部屋着でリビングに行くと、食卓には二人分のドリアが湯気を立てていた。乾燥貝柱を細かく砕いて小エビと合わせた、ぼくの好きな料理だ。もうすぐ根雪に覆われる千歳では温かい料理が何より嬉しい。

「ワイン、飲む?」

 智恵子は、料理用のミトンをつけたまま、首をかしげる。

「うん」

 ぼくが曹士との宴席であまり飲み喰いをしないので、こういう夜、智恵子は夫の好きな料理を用意してくれる。曹士とビールを飲みながら、ざっくばらんに会話を楽しむ幹部もいる。ぼくは、三年前、三佐に昇格するまでパイロットだったせいもあり、そういった場ではほとんど飲まなかった。そのころは、「今夜は飲んでも大丈夫?」と訊かれていたが、佐官に昇格し地上勤務となったいまは「飲む?」と訊かれるようになった。

「白? 赤?」

「白にしようかな」

 智恵子は、キッチンに戻り、冷えた白ワインとグラスを持ってくる。ぼくは、手渡されたボトルの栓を抜き、二人のグラスにワインを注ぐ。

「お疲れさま」

「いつも待っていてくれて、ありがとう」

 智恵子の律儀さに感謝して、乾杯のためにグラスを差し出す。

「榊原さんと話せた?」

 彼女が、防大で同期だった友人の名前を言う。

「今夜は挨拶程度だよ。あいつが主役の壮行会だ」

 卒業以来十年間、陸自の榊原と同地域に赴任したのは、二度目の千歳が初めてだった。それ以前にも、本省への出張が重なったり、相手の任地に用件があったりしたときにプライベートで飲んでいたが、智恵子には友人の名前までは伝えていなかった。お互いに子どもがいないこともあり、千歳に赴任してから榊原夫婦と智恵子の四人で何度か飲んでいる。

 けれども、今夜の榊原は、Q国のPKOに派遣される指揮官のひとりだった。二週間後に出国を控えた壮行会は、本省から副大臣が主賓として招かれ、統合幕僚監部の将官も出席する。榊原とぼくが防大同期であることを知っている将官も多いはずだが、気軽に話しかける雰囲気はなかった。

「そう……。元気そうだった?」

「うん、凛としていた」

 ぼくは、ワイングラスを傾けながら答える。幹部自衛官は、俳優並みに自分の役回りに沿った振る舞いを要求される。部隊の中ではもちろん、家族・友人に対しても、決して不安を感じさせてはならない。それができなければ階級は上がっても、実質的な任務は尉官止まりだ。

「出国までに、また、莉奈さんと四人で会えるといいな。よかったら、家に来てもらわない?」

 先月、四人で札幌のジンギスカン屋で鍋を囲んだときには、まだ、榊原のQ国派遣を智恵子に伝えられなかった。たぶん、榊原の妻の莉奈さんも、それを報らされていなかったと思う。空自で部隊の違うぼくが、一ヶ月後の陸自内の辞令を知っていたのは異例中の異例だ。

「ちょっと難しいかな。今度の非番は、会津の実家に顔を出しに行くって言っていたし、その他にも、いろいろ挨拶回りがありそうだ」

「そっか……。さびしいね」

「こういうときは、同期は後回しだよ。落ち着いたら、智恵子が莉奈さんを食事にでも誘えばいい」

 実際のところ、先月の四人での会食は、榊原から「何かあれば、智恵子さんが莉奈の気分転換の相手になってほしい」と頼まれて設けた会食だった。

「こういうとき……か」

 智恵子が、寂しそうに言う。

「戻ってきたときには、また四人で食事をできる」

 ぼくは、「たったの十五ヶ月だ」と言いそうになった。十五ヶ月であろうが、一週間であろうが、智恵子にとっては変わらない。憲法九条が変更されたいまとなっては、紛争地域に派遣される家族に期間の長短は安心を与えない。与党の「国防軍」という名称案こそ国会審議前に消え「自衛隊」のままだったが、その条文は日本の軍隊に交戦権があることを否定していない。

 榊原のQ国派遣が公になってからの半月、智恵子を見ていると、旧憲法が自衛官の家族の心情を支えていたことが、実感を伴って分かる。

《第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。》

 この旧条文から「交戦権」の文字が消え、『第九条の二』に、国際社会の平和維持の任務が加えられたいま、Q国に派遣される部隊には交戦権が与えられている。その現地指揮官のひとりである榊原には、突発的な攻撃を受けた際、戦闘に応ずる権限が内閣総理大臣から委譲された。そして、命令拒否をすれば、一般の裁判所ではなく軍法会議で罪を問われる。

 与党内でさえ反論があった憲法改正は、大手メディアの改悪反対キャンペーンにもかかわらず、旧憲法に則った手続きを経て国民投票を実施した。投票率六十五%のうち過半数の五十五%、約三千六百万人の有権者が憲法改正に賛成票を投じた。それから一年半が経ったいま、「喉元過ぎれば」ではないだろうが、ほとんどの国民やメディアは、憲法が改正されたことさえ忘れてしまったのではないかと疑う。

(戦争をできる国になっても、多くの人にとって影響のある変更ではなかった、ということだ)

 ぼくは、黙って、ドリアを食べる智恵子を見ながら思う。実際には、新たに加えられた緊急事態条項(新九十八条)によって、内閣総理大臣が「緊急事態」を宣言すれば、自衛官以外の人々も「国民の生命、身体及び財産を守るために行われる措置に関して発せられる国その他公の機関の指示に従わなければならない」(※)。他国から攻撃を受けたと内閣総理大臣が考えれば、国会の承認を待たずに、近所の公園や小学校の校庭に高射砲が設置されたり、空港や駅に自動小銃を持った自衛官が立ったりするのに、多くの人は、軍事衝突の危険性から目を逸らしている。あるいは、「緊急事態」とは地震や自然災害のことだけだと思い込んでいる。

「大丈夫だよ」

 ぼくは、黙り込んだ智恵子に声をかけた。

「何が?」

「榊原も、あいつの部下も、ちゃんと帰ってくる。それだけの賢明さがあるから、榊原が選ばれたんだ」

「そうだよね……」

「あいつの性格は、莉奈さんよりも、ぼくのほうがよく知っている。問題ない」

 人前では口にできないが、憲法改正に一番反対したのは、防大卒の中堅幹部だったと言っても間違っていない。「シビリアン・コントロール」とは裏腹に、戦争をしたいのは政治家で、多くの自衛官は、武力行使を望んでいないし、自分の部下を紛争地域に派遣したいとも考えていない(付け加えるなら、ぼくは、自分の勤める組織を違憲状態だと言われても不満を感じなかった)。

「怪我とかしなければいいけれど……」

「あっても、すり傷程度だ」

「榊原さんのすり傷は、わたしたちと程度が違うから」

 ぼくは、「そうだね」と笑った。智恵子の言うとおり、空自と陸自では、すり傷の程度が違う。榊原は、肋骨の一、二本にひびが入っても何事もないかのように訓練に向かう。対してぼくは、虫歯があってもコクピットに乗れなかった。何気ない言葉が、智恵子の表情を明るくさせる。

「あなたが、空自でよかった」

「うん。美味しいドリア、ごちそうさま」

 ぼくは、飲みかけのボトルにコルクを押し込んで、智恵子に笑顔を見せた。空自でも、紛争地域に派遣される機会はある。大型輸送機での邦人輸送、PKOの資材輸送は、空自が担う。けれども、彼女が心配するような命が危険にさらされる可能性は小さい。

 智恵子は何も知らない。彼女の心配は、自衛官の妻として、夫が無事に帰ってくることだ。

 榊原の駐留地は、現在の戦闘区域から百キロ後方の市街地だ。その中間地帯は多国籍軍が制圧しているので、偶発的なゲリラ戦の危険も小さい。今回に限れば、榊原は、十五ヶ月後、「陸自でいうところのすり傷」も負わずに笑顔で帰ってくるだろう。

 紛争に行くのは、ぼく自身だということを、智恵子は知らない。彼女は、軍人の妻として、夫が合法的な殺人者になることを心配しているわけではない。

 


早瀬 耕(はやせ・こう)

1967年東京都生まれ。92年『グリフォンズ・ガーデン』でデビュー。22年ぶりの長編『未必のマクベス』は本の雑誌「おすすめ文庫王国2018」恋愛小説部門1位になり話題に。著書に『プラネタリウムの外側』。