三浦しをんさん 『愛なき世界』

第122回
三浦しをんさん
愛なき世界
誰もが人間を愛し愛される関係ではなくてもいいんじゃないでしょうか
三浦しをんさん 『愛なき世界』

さまざまな舞台を極上のエンターテインメントに昇華させることを得意とする三浦しをんさん。新作『愛なき世界』で読者を誘うのは、植物学の研究室。理系は苦手といいつつも、綿密な取材にもとづいて、なんとも奥深き世界を私たちに垣間見せてくれている。

きっかけは教授の持ち込み企画!?

 小説『舟を編む』では辞書編纂、『神去なあなあ日常』では林業の仕事を細やかに描き出し、インタビュー集『ふむふむ:おしえて、お仕事!』ではさまざまな職業に就く女性たちに根掘り葉掘り取材し、ルポエッセイ『ぐるぐる♡博物館』では各地のユニークな博物館を訪ね歩く。三浦しをんさんは、何かをとことん追求する人たちの世界が心底好きなようだ。そんな彼女が新作長篇『愛なき世界』に登場させるのは、大学の植物学の研究室。きっかけは、東京大学大学院で植物の研究をする塚谷裕一教授の提案だったという。

「私の『舟を編む』を読んだ塚谷先生から、"辞書編集部の小説を書けるということは、植物学の小説も書けると思うので、取材をしてみませんか"というお誘いをいただいたんです。"院生たちがすごく頑張っているので、興味を持ってもらえるかもしれません"と。すぐにお返事はできませんでした。これまでは自分が興味があるものを取材して書くことが多かったので、取材してみても興味が持てなかったら申し訳ないし、私はバリバリ文系で理数系はまったく分からないし。でも塚谷先生が発表なさる学会におじゃましてみたり、研究室の院生の方たちと話してみて、面白そうだなと思って。それまで植物学というと植物を採集して分類するというイメージでいたんですが、そうではなく細胞や遺伝子について研究されていました」

 ただし本作の主人公は学者ではなく、料理人見習いだ。東京は本郷、T大(どう考えても東大)のそばにある洋食屋、「円服亭」の住み込み店員の藤丸陽太は料理人を志す青年。店の常連客にはT大学の人間も多く、藤丸は理学系研究科生物科学専攻の教授、松田賢三郎の研究室に配達にも出向くように。彼らの専攻は植物学。いつも黒いスーツを着て陰鬱な様子の松田教授(実は面倒見がよい)、サボテンを愛し緑の指を持つ院生の青年ら個性豊かな面々が揃うなか、藤丸はシロイヌナズナを愛でる院生、本村紗英に惹かれていく。

「実際の研究室は院生の人数も多かったんですけれど、ムードは作中と同じで、和気あいあいとしていました。みんな別々の研究をしているので普段は独立独歩なんですが、空いている教室でお好み焼きパーティをしていたりして。いつも黒いスーツの松田先生は、決して塚谷先生がモデルではないです(笑)」

 きのこは植物よりも動物に近い、研究室ではさまざまな用途で使うために爪楊枝の消費量が多い、容器の内壁についた水分を下に落とすためだけの機械「CHIBITAN」というものがある……等々、研究室周辺のさりげない描写を重ねてリアリティを出していく巧さといったら!

「え、この機械はそのためだけにあるんですか? と訊いたら"そうです"と即答されて。研究者にとっては今さらと思うことにいちいち衝撃を受けていました」

 本村に近づきたい藤丸もまた、彼らの研究に惹かれていく。

「私自身が、研究室の方たちを見て、この人たちと、この人たちが夢中になっているものをもっと知りたいなと思うようになったので、そういう人物を主人公にしました。理系の世界を知らない読者にとって案内人になるような人でもありますね。料理人にしたのは、野菜や魚や肉という食材も生き物だし、人間という生き物のために日々ご飯を作り、常に生命に触れ合っている人なら野菜の造形の美しさも知っているし、植物にも興味を持ちやすいんじゃないかと思ったからです」

 本村たち院生と藤丸は、何かを追求しようとしている点も共通している。

「"自分はこれが好き"というものがある人のほうが、分野は違っても何かすごく好きな世界を持っている人のことを思いやったり理解したいと思えるんじゃないかと考えました」

 藤丸と本村の人物像はほぼ同じ頃に浮かんだそうで、

「藤丸が好きになりそうな子として本村さんが浮かびました。研究者側を女の子にしたかったですね。理系というと男の人が多い印象がありますが、私が取材した限りでは女性も半数ほどいましたし、これから女性研究者はどんどん増えるでしょうから、あえて女の子にしました」

 この本村が、なんともチャーミング。葉っぱの表にある気孔の拡大写真をプリントしたTシャツなどを着て、黙々と研究に没頭。陽気でいい意味で単純な藤丸は、勢いで本村さんに告白、あっさりと振られてしまう。彼女は恋愛よりもシロイヌナズナの研究に夢中なのだ。

「研究が大好きで夢中であるがゆえに世間一般からすると変わっているよねと思われるような人です。実際は、何も知らない藤丸君に丁寧に説明をするような親切心があるし、人をわけへだてしないし、変な先入観もない優しく公正な女の子かなと思います」

「役立つから」ではなく「好きだから」

 功名心や自己承認欲求があるわけでもなく、研究を人類のために役立てようというふうでもなく、ただ純粋に「好きだから」という気持ちで没頭している様子は、羨ましくもある。

「本村さんが研究しているシロイヌナズナの仕組みが解明されたとしても、人類の利益に直結したりしない。彼女はただ、なぜこの世界はこういうふうに出来上がっているのか、そういうことを知りたいんですよね」

 三浦さん自身、研究室の人たちに取材中、それが役に立つかどうかではなく「知りたくてやってみようと思った」と言われてハッとしたという。

「理系の研究というと、すぐに新薬の開発に繋がるかどうかとか、人の役に立つかどうか考えがちですが、それだけではつまらないなと思いました。すぐには役立たない研究だって、そうした積み重ねがないと真実には近づいていけないし。そもそも小説だって、役に立つから読むわけではないですよね。音楽や小説や詩のように何かものを作ることと、理系の基礎研究というのはどこか通じるものがある気がしました。人間やこの世界がどういうものかを追い求める点では同じなんだな、って」

三浦しをん『愛なき世界』

 本村さんが夢中になっているシロイヌナズナは普遍的な研究に使用される"モデル生物"といわれているそうで、

「いろいろ教えてくださった院生の方がシロイヌナズナの研究をしていて、私も種蒔きなどをやらせてもらいました。地味な草なんですけれど、"三浦さんが蒔いた種、可愛らしい芽が出てきました"という報告を見ているうちにほんとうに可愛いく見えてきて、愛着がわきました。葉の形が全然違う変異株というものも分かってくるのも面白かったです」

 本村さんがどういう実験をして、どこでつまずくかも非常に丁寧に描きこまれるが、

「素人の私には彼女がどういう研究をして何が起こるか分からず、本当に困りました。それで塚谷先生に"本村さんって何の研究をしているんでしょうね"と相談したんです。"こういう研究をするとこういう取り違えって生じるでしょうか"とか。先生が今まで見たこともないであろう、すごく出来の悪い学生の卒業論文を、テーマの設定から丁寧に指導してくださった感じです(笑)」

 実験経過に関しては、こちらの心に響くものがある。途中でミスが発覚、セオリー通りの実験が進められなくなった時、どうするのか。その物語の流れにおいても、塚谷先生の言葉が大きく影響している。

「段取り通りの実験をして予想通りの結果が出るのは退屈だ、と先生がおっしゃっていて。思いがけない発見があった時こそ、研究ってすごく面白いなと思うんだそうです。それは何に関してもそうですよね。安全だろうと思った道を行ってアクシデントが起きた時、どうするのか。そこに、その人の性格やセンスが出る。だからぜひ、そうした過程は話に取り入れたいなと思いました」

 ほかにも、円服亭の店主の円谷や、常連の年配のおじさんおばさんたちもいい味を出して笑わせ、本郷の町自体の魅力も感じられる。

「私も特に詳しかった町ではないのですが、昔からの喫茶店があったり、学生さんの町という雰囲気がすごくよくて。そうした雰囲気も、洋食屋さんに集う人たちを通して出るといいなと思っていました。題材が遺伝子の実験ですから、あまりシリアスにならないようにしたかったですし。でも意識していなくても、登場人物たちが変なことを言い出すんです。藤丸がフラれたことを知った常連さんたちが彼を"フラ丸"なんて呼び出した時は、自分でも"そんなこと言い出した!"と思いましたね(笑)」

 50人ほどが集まる松田たちのシンポジウムに円服亭がお弁当を用意するシーンもあるが、

「この段取りは一生懸命考えましたね。お弁当を台車で運べるかどうかとか、料理の手順はどうするかとか。この店にはコンロは何口あるんだろうというところから考えて組み立てていくのは楽しい作業でした」

愛を知らない世界に愛を注ぐ

 さて、親密さを増していく藤丸と本村さんだが、年頃でもある彼女がなかなか恋愛に興味を示さない、というのはかえって痛快にも思える。

「この二人が最終的にくっつくのかどうかはあまり考えずに書いていました。でも、誰もが人間を愛し愛され……みたいなことをしなくてもいいんじゃないかという気もしていて。本村さんは本村さんで人間愛にあふれている人ですが、愛の対象が人間でなくてもいいんじゃないかって。いろんなものに愛や情熱を注ぐ人がいたっていいのでは」

 しかも彼女が愛を注ぐ対象は、愛を知らない植物なのである。

「植物には脳も神経もなく、人間が思う"愛"というものがまったく通じない。生物の世界ってそっちがスタンダードなのかなとも感じました。"愛"という概念のない植物の世界ですが、そこは非常に豊かで多種多様なもので作り上げられている。人間だって、細胞のひとつひとつは別に何も考えていないと思うと、生き物って本当に不思議ですよね」

 奥深く豊饒な世界をエンターテインメントとして結実させた三浦さん。今後もし、塚谷先生のように"この分野を小説にしてくれないか"というオファーが来たら……?

「理系はもう、こちらの理解が追いつかないので……(笑)。でも難しい世界もかみ砕いて素人にも分かるように伝えてくれる人や媒体があるといいなとは思いました」

 今後は、短篇の企画に取り組む予定。

「長篇ばかりを書いているよりも、そのほうが自分のリズム的にもいいんです。短篇を書いているうちに、次の長篇の題材がまた見えてくると思います」

三浦しをん(みうら・しをん)

1976年東京生まれ。2000年『格闘する者に〇』でデビュー。06年『まほろ駅前多田便利軒』で直木賞、12年『舟を編む』で本屋大賞、15年『あの家に暮らす四人の女』で織田作之助賞を受賞した。その他の著書に『風が強く吹いている』『きみはポラリス』『神去なあなあ日常』『木暮荘物語』『ののはな通信』などがある。

〈「きらら」2018年11月号掲載〉
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