◎編集者コラム◎ 『竜宮城と七夕さま』浅田次郎

◎編集者コラム◎

『竜宮城と七夕さま』浅田次郎


竜宮城と七夕さま

 作家の着眼点

「昨二〇一九年十二月に取材のため中国を訪ねて以来、旅に出ていない。かれこれ五カ月にわたって、航空機にも新幹線にも乗っていないというのは、少なくとも大人になってからは経験がなく、またこの記録はどこまで伸びるのかわからぬ」

 今作品のあとがきで、そう嘆く浅田さん。コロナ禍にあっては仕方がない状況ですが、読者にとってはこの一冊で様々な旅を体験できることと思います。

 浅田次郎さんが、日本航空の機内誌『スカイワード』さんで、十七年以上にわたって書き続けている、人気の旅エッセイシリーズ『つばさよつばさ』。小学館で単行本化し、その後文庫化している作品が次の三作品です。『つばさよつばさ』『アイム・ファイン!』『パリわずらい 江戸わずらい』

 そして、今回、第四弾として文庫化されたのが『竜宮城と七夕さま』になります。このエッセイシリーズはどんなスケジュールで作られているのでしょうか。

 まず、『スカイワード』さんの連載が約三年経つと、だいたい四十篇がストックされます。それを単行本化して三年経つと、文庫化のタイミングとなります。ですから、古い作品だと連載から六年経って文庫に収録されるということになります。言ってみれば、文庫に入っている作品は六年分の歴史に耐えた珠玉のものばかりということができます。

 そして、浅田さんはこれまで、どのようにしてエッセイのテーマを見つけてきたのでしょうか。

「当方は一年のうち八カ月を書斎で過ごし、四カ月は旅に出ているというヘビー・トラベラーであるからして、旅ネタに不自由することもない」(あとがきより)。

 とはいえ、そんなに面白い話がそのへんに転がっているわけもなく、そこはベストセラー作家だけに、常人が気づかない観察眼と洞察力によってネタがキャッチされます。

 旅といっても、移動に丸一日以上かかる世界の辺境の話もあれば、近所の銭湯への数十歩の旅も浅田さんの手によれば、人生の旅そのものとして紡がれます。

 その中の一篇「唸る男」は幼少時代の銭湯が舞台です。昔の風呂は熱かった。子供はすぐに出たくなるような温度でした。浅田さんはこう書きます。

「大人の男たちはみな、熱い湯船に浸かったとたん『おー』だの『うー』だのと唸り声を上げるのである。唸る子供はいない。若者たちもさほど唸らない。年齢とともに唸り始めて、ご隠居の齢になると洗濯板のような胸板のどこからそんな声が出るのだと疑うくらい、法悦の呻き声を上げるのである」(本文より)。

 わかる、わかるとうなずく人も多いのではないでしょうか。まさに昭和が再現されています。

 また、今シリーズは、食べ物がテーマのものはとても人気があります。今回も「かき氷」「中華料理」「ドラ焼き」「キムチ」「トリュフ」「納豆」とどれも食欲をそそりそうなラインナップが並んでいます。

 たとえば、「キムチ大好き」。以前に訪韓したときにキムチのあまりの辛さにめまいを感じた浅田さん。しかし最近のご当地のキムチにはそれほど刺激を感じなくなったといいます。それはなぜなのか、作家は真剣に考えます。そして三つの理由にたどり着きます。

 ①韓国料理がマイルドになった。文化の多様性が失われて、グローバルスタンダードを指向した。②日本がカラくなった。キムチが日本で常食となった結果、日本人がカラさに慣れた。③小説家の幻想。職業柄みずからの体験をデフォルメして記憶してしまった。

「①と②に関しては多様性の喪失という点で好もしい結論ではなし、最も有力と思える③については、長い付き合いの編集者が答えに窮するところであろう」(本文より)。

 キムチの辛さについて民族学的アプローチと笑いを秘めた一篇のエッセイを書き上げる筆力はさすがです。

 そして、今回のタイトルとなった『竜宮城と七夕さま』では、浦島太郎が招かれた竜宮城で一体何を食べたのかについての考察が描かれます。鯛や平目が舞い踊る竜宮城で、まさか刺身を食べたのか、それとも……。そのメニュー内容は、ぜひこの一冊を読んで確かめてみてください。

──『竜宮城と七夕さま』担当者より
〈「本の窓」2020年7月号掲載/私の編集した本〉

竜宮城と七夕さま

彩瀬まる『森があふれる』/モラハラで抑圧された妻が、ある日“狂う”
高崎俊夫・朝倉史明 編『芦川いづみ 愁いを含んで、ほのかに甘く』/伝説の女優、デビュー65周年の記念本