◎編集者コラム◎ 『不協和音』著/クリスティーン・ベル 訳/大谷瑠璃子

◎編集者コラム◎

『不協和音』著/クリスティーン・ベル 訳/大谷瑠璃子


不協和音

「ガスライティング」という言葉をご存じですか? 脳科学者・中野信子さんの本書解説によると、〈繰り返し被害者の認知と感覚とを狂わせ、正気であるのかどうかを自分で確かめられないように仕組んで精神的に追い詰める行為〉だといいます。映画『ガス燈』にちなんで使われるようになった言葉で、映画の中ではイングリット・バーグマン演じる妻が被害者。「部屋の灯りが薄暗い」と妻が夫に言うと、夫は事前に薄暗くなるように仕掛けをしておきながら「君の思い違いだ」と答える。そんな夫の小さな小細工の数々によって、妻はだんだん自分の感覚や記憶を疑うようになり、精神的に追い詰められていくのです。

 国際スリラー作家協会賞受賞の本作『不協和音』は、若くして夫を亡くした二児の母リリーが、見えない「敵」からじわじわとガスライティングされていく過程を描いたサイコスリラー。とはいえ、前半三分の二くらいまでは、殺人事件が起こるわけでもなく、これといった大きな事件も起こりません。若くして未亡人となったリリーの大変な日常と心の動き、そしてその中で時々起こる、些細だけれども不可解な出来事が淡々と綴られていきます。文章も端正かつ流麗で、舞台となるテネシー州の豊かな自然描写にはうっとりさせられ、また大きなモチーフのひとつである音楽にかかわる描写も美しく、どちらかと言えば純文学作品という趣です。翻訳者の大谷瑠璃子さんも、最初に原書を読んだときには途中まで「本当にサイコスリラー?」と思っていたとか。

 ところが後半三分の一あたりから一気に流れが急転し、とんでもない方向へ。犯人の正体にも驚かされますが、数々の行為の目的を知ったときには、怖かったのなんの。前半の作風が抑制的だっただけに、その爆発的衝撃たるやハンパではありません。やはりこれは、正真正銘の「サイコスリラー」! ……ではありますが、ラストの「いいものを読んだ……」という不思議な感覚もまた独特で、「この展開でこの読後感って……」といい意味で裏切られた気分。こんなに一筋縄ではいかない小説には初めて出会いました。

 ちなみに、原題の「GRIEVANCR」は、辞書には「不平」「不満」と記されていますが、本来はもっと広義の、ネガティブな心理全般を指す言葉だそうです。ひと言で表現するのが難しいそのニュアンスこそ、本作を象徴しているのかもしれません。

 スリラーと言えば「一気読み」をイメージするかもしれませんが、むしろじっくりとその旨味を味わい噛みしめながら読んでいただきたい傑作です。

──『不協和音』担当者より

『不協和音』

日向ぼっこのお供に
レンブラントの絵画のように美しい、文芸映画の決定版『シェイクスピアの庭』