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梓崎 優 さん『リバーサイド・チルドレン』
 小説を書くのであれば、祈りや願いをこめたものを書きたいのかもしれない、と今回気づきました。
2008年、短編「砂漠を走る船の道」で第5回ミステリーズ!新人賞を受賞、2010年に同作を冒頭に据えた連作短編集『叫びと祈り』で単行本デビュー。同作が年末の各ミステリランキングで上位に入り注目を浴びた期待の新人、梓崎優さん。待望の新刊『リバーサイド・チルドレン』はカンボジアを舞台にストリートチルドレンが遭遇する凄惨な事件を描く長編だ。梓崎 優(しざき・ゆう)1983年東京都生まれ。2008年、短編「砂漠を走る船の道」で第5回ミステリーズ!新人賞を受賞。受賞作を第1話に据えた連作短編集『叫びと祈り』を10年に刊行した。最新刊『リバーサイド・チルドレン』は、完成までに3年をかけた初長編。

なぜカンボジアだったのか

 単行本デビュー『叫びと祈り』は一人の日本人青年がアフリカの砂漠やスペインなど各地を訪れた際に、遭遇する事件を描いた連作集だった。第二作となる長編『リバーサイド・チルドレン』もまた、日本ではなく海外が舞台。今回はカンボジアだ。

「幼稚園から小学校4年生まで6年間マレーシアに住んでいたこともあり、外国を書くことについては特に精神的な壁がないんです。それに海外の土地を取り上げた『叫びと祈り』で望外な評価をいただいたので、長編を書くならまた海外を舞台にした方が良いのでは、という気持ちも少しはありました」

 首都プノンペンの北、人里から離れた川縁の空き地に立つ高床式の小屋。そこには親のない少年たちが共同で暮らしている。彼らは川を下って広大なごみ捨て場に通ってはペットボトルやビニールを拾い、さらに下流にあるスクラップ工場でわずかな現金に換えて暮らしている。一日の収入は一ドルにも満たない。その少年たちのグループにいる十三歳の少年、ミサキが本作の主人公だ。日々食べ物を手に入れることに追われ、彼らを目の敵にしている警官から逃げまわり、近隣に暮らす他のグループと衝突を繰り返す。そんな苦しい日々に追い打ちをかけるように、仲間が一人、また一人と殺されていく──。

 ストリートチルドレンを書きたい、という気持ちはデビュー作を執筆時からすでにあったという。

「マレーシアに住んでいる頃に、実際そうした子供たちを目にしていたんです。中高生時代に社会の貧困問題やストリートチルドレンを描いた映画や本に触れる機会もあり、それも多少きっかけになっていますね。ずっと気になっている題材だったので、彼らが暮らしている世界でミステリが成り立たないか、と興味がわいて。実はインドネシアやタイには行ったことがあるんですが、カンボジアはまだなくて。でも、どうせ書くならストリートチルドレンの問題が顕著に出ているところにしようと考え、周辺国に比べて貧しいカンボジアを選びました。場所は首都のプノンペンの近くにあるごみ山をイメージしていますが、アンコールワットの近くの観光地であるシェムリアップの雰囲気もまぜています。ですから若干現実とは乖離していますね。彼らの暮らしぶりは社会実情を鑑みて想像を織り交ぜて書きましたが、事後的に確認はとってあります」

 著者の頭の中にはきちんとした地図もできているそうだ。川の流域に観光地化されていく街があり、その上流にスラム街とごみ山があり、さらに上流にミサキたちの寝床となる小屋があるという設定。

主人公は日本人少年

 ミサキは実は日本人だ。カンボジアを旅行中、訳あって街に放り出され、子供たちだけで暮らしているヴェニイたちと出会う。

「『叫びと祈り』の時もそうでしたが、読者にとって馴染みのない世界を書くということもあり、日本人の視点を持った人物にしました」

 ミサキは後半、事件の真相を探ろうとする探偵役でもあり、論理的な思考ができる存在にする必要もあった模様。

「ボランティアの日本人を主人公にする方法もあったと思いますが、カンボジアの子供たちと同じ目線、同じ土俵に立つことで、物事がどういう風に見えてくるのかを書きたかったんです。ミサキがもし日本で同じ状況に置かれたなら、簡単に気持ちが折れていたかもしれない。でもあの場所では嘆くよりもまず生きていかなくちゃいけない。否が応でも活力を持って生きていかなくてはいけない社会だということは、調べていくうちに実感したことでもあるんです」

 カンボジアの社会的な背景も丁寧に盛り込まれる。かつてクメール・ルージュに参加したと思われる人物も登場。観光地化が進んでいる状況も描かれ、かつては現地の人しかいなかった場所にも外国人観光客が足を踏み入れる様子も。そしてもちろん、大勢のストリートチルドレンも登場する。実際の貧困層の子供たちは、スラム街で親と一緒に暮らしている場合が多いというが、

「今回はあえて親から捨てられた子供たちを選びました。街やごみ山から離れたところに、子供たちだけのユートピアを築いてあげたかったんです」

 ごみの買い取り主である工場長には抜け目ない態度で接する図々しさを持つ一方で、ごみを〈エモノ〉、ごみ拾いを〈狩り〉と称して自分たちの生活に彩りを持たせようとする面も持ち合わせている子供たち。健気さやとしぶとさ、幼さと賢さなど、さまざまな顔が丁寧に描かれている点が印象的。

「彼らの生活の過酷さだけをフィーチュアしても本当にストリートチルドレンを書いたことになるのだろうか、と考えました。実際の彼らは意地汚く生きている側面もあれば、子供としての無邪気さが顔を出す瞬間もあるはず。偏った見方にならないよう、自分を戒めながら書いたつもりです」

 ミサキの仲間は個性的だ。ヴェニイというグループのリーダーの少年は名言好きで太陽のような存在。狩りの得意なティアネン、韓国系のハヌル、美少年のフラワーら。また、街で知り合ったナクリーという少女は敵対する墓守のグループにいるが、後にミサキの協力者に。

「子供たちがグループで生活する時には、中心になる存在が必ずいる。逆にそういう存在がいなければ彼らはバラバラになってしまう。それでヴェニイという存在を登場させました。ナクリーはやはり男の子しか出てこない話になるのもどうかと思って(笑)。それだけでなくストリートチルドレンの中にも女の子がいるということは書いておきたかったし、女の子のストリートチルドレンであるが故の問題もあるので、そういうバックグラウンドを背負って登場してもらいました」

 もちろん大人も登場する。雨乞いと呼ばれる老人、路上生活者を目の敵にしている警官〈黒〉、子供たちを救おうとするボランティアグループの日本人女性のヨシコたちだ。

「〈黒〉については誇張しています。でも世界ではストリートチルドレンが虐殺された事件もあるので、子供たちにとって怖い存在、敵対する人物は出しておきたかったんです。ボランティアの女性たちは、今のカンボジアにはなくてはならない存在。でも路上生活の子供たちから見れば善人に見えるとは限らないと思い、彼らにとってはよく分からない存在として書いています」

 ヨシコたちに施設に保護すると言われても、それを拒むヴェニイたち。彼らにとっては、自由であることのほうが大切なのだ。

「個人的には彼らは保護されたほうがいいとは思います。でも、彼らがボランティアの人たちを受け入れるとは限らない。私たちには間違っていると思える選択が時になされる、それがリアルな姿なのかなと感じます」

殺されていく仲間たち

 ヴェニイがいるからこそ統率がとれているといえる少年たち。しかし、そのヴェニイがある日殺されてしまう。仲間たちに動揺が広がるなか、さらに別の少年が殺められる。それは連続殺人の幕開けでもあった。ここで小説はミステリ色を強めるが、著者はいたずらに凄惨な事件を書こうとしたわけではない。

「もしもこの環境で殺人が起きるならば、ある種の残虐性は出てくるのではないかと思いました。犯人像としては、切実な動機を持った者でなければならないという意識がありました」

 ミサキは身の危険を感じながらも、ナクリーとともに真相を探ろうとする。無力の子供がどこまで調査できるか、謎の解き方にも気を配った。その過程で『叫びと祈り』の読者にとっては「あの人?」と思える人物も登場。

「子供たちだけで真相に辿りつけるかどうかについてはずいぶん考えました。誰か後押しをしてくれる存在が必要ではないかと思って。前作とリンクしないバージョンも考えてはいたんですが、散々悩んだ挙句、あのように書きました」

 もちろん前作を知らない読者が不自然に感じないように配慮されている。そして真相に辿りついた後、ミサキがどうなるのかというと……。

「ラストに至るまで、この話はどう終わるのか自分でも分かりませんでした。でも最後には自然にああなった。正しいかどうかは別として、主人公にとっては本当の選択だったと思う」

 この社会のあり方、その中で生きる子供たちの生き方を考えた時、この世の中が決して簡単には解決しない問題、欠落を抱えていることを実感する。その中で前を向こうとする少年の姿に、愛おしさと切なさを含んだ、複雑な感情が胸をよぎる。

 事件の謎を解く本筋とは別に、異国情緒漂う梓崎テイストを感じるのは、ミサキが披露する話としてゴーレムのエピソードが出てくること。ユダヤ教の伝承にある泥人形のことで、話のトーンが変わる章と章の間に間奏としてゴーレムが登場する映画のストーリーも紹介される。

「大学の卒論で経済分析の話のなかでゴーレムについて扱ったことがあるんです。カンボジアの話を膨らませていくうちに、もしかしてゴーレムの話とも通じる部分があるのではないか、と思って取り入れてみました。詳しくはぜひ本を読んでみてください」

作品に込める祈りと願い

 また、読み進めるうちに突き刺さってくるのは、繰り返される〈ぼくたちはストリートチルドレンだ〉という言葉。ストリートチルドレンだから、仲間が一人死んだところで、誰もかまってくれない。人々にとって自分たちは見えない存在だという、悲痛な叫びである。

「この小説を書いたスタート地点では、彼らが何者でどういう生活をしているんだろう、という思いがありました。マレーシアにいた頃、私が住んでいる場所の周囲にも彼らのような存在は多かったのですが、目にしてはいても、意味が分かっていなかった。風景の中に自然と存在していると認識していたと思うんです。あとあと日本で暮らしながら考えて、あれは特殊な風景だったんだと思うようになって……」

 今回、自分が風景としてしか見ていなかった存在の側に立って書こうとしたのかと訊くと、

「そうですね。今、気づきました」

 と梓崎さん。どうやら無意識のうちに彼らに対する思いが作品に表れたようだ。

 本書には、社会に対する主張やメッセージが書かれているわけではない。それでも、懸命に生きる人々に対する敬意と情愛が感じられるのは、著者本人の無意識の祈りや願いがこめられているからなのでは。

「前作もそうでしたが、自分が何かを書くとなると祈りの部分、願いの部分が必ず出てくるのかな、という気がします。現実を厳しく描写するだけであれば、ノンフィクションを書けばいい。小説を書くのであれば、祈りや願いをこめたものを書きたいのかもしれない、とは今回二作目を書いた時に気づきました。ミステリを書く理由はまた違って、自分がミステリが好きだからということが大きいですし、ミステリだからこそ訴えられるものがあるんじゃないかと思っているのもあります」

 単なる謎解きだけを重視するのではなく、感情に訴えるものがあるのは、そういう動機があるからだろう。また、ミサキたちが「雨が降るのは、自分たちの代わりに星が泣いてくれるから」と信じている様子からも感じられるように、抒情的な、いってみればロマンティックな描写も多いのも特徴。

「自分で自分がロマンティックだというのもどうかと思いますが(笑)、流されて書くと、そうした描写がものすごく多くなってしまうんです。どれだけ抑制していくかというのは今後の課題でもありますね」

 では、今後はどのような作品を執筆する予定なのだろう。

「短編をいくつか書いていますが、それとは別に今度は日本を舞台にした長編に取り組もうと思っています。最近、絵の勉強をしたいなと思っていろいろ調べていたので、西洋絵画にまつわる話を発表できたらいいなと思っていて」

 デビュー作から本作まで三年半。またそれくらい待たされるのだろうか……。

「い、いえ……(笑)。できるだけはやく出したいなと思っています。頑張ります」

 

(文・取材/瀧井朝世)
 

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