翻訳者は語る 関根光宏さん

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第13回

sekinesan

 年明けの原書発売と同時に、全世界に話題が駆け巡った『炎と怒り トランプ政権の内幕(原題:FIRE AND FURY)』。日本でも緊急出版が発表され、発売前から読者の期待と評判が最高潮に。「依頼から刊行までが一か月あまり」という殺人的スケジュールのなか、翻訳会社「リベル」の十二名の翻訳者をとりまとめた関根光宏さんに舞台裏を伺いました。

〈「発売は延ばせません」〉

 この本の存在をニュースで知ったのが、一月五日。その時は他人事でした。出版社から事務所に翻訳の依頼が来たのが十一日の夜。これだけ話題の本なので光栄に思った反面、一月末日が締め切りと聞き、さすがに即答は出来ませんでした。「翻訳者は何人になっても構わない」と言われましたが、せめて一か月もらえないかと聞くと、「発売は延ばせません」ときっぱり(笑)。社内で一晩検討し、翌日に出版社に承諾の連絡をすると、その日のうちに「二月中に発売」と大々的に発表されていました。

「緊急出版」は何度か経験がありますが、今回は「緊急度」がまるで違いました。誰かが全文を通読する間もなく、とにかく作業可能な翻訳者を集め、五章分を担当した藤田(美菜子)さん以外の翻訳者には二、三章ずつを振り分けていきましたが、いざ取りかかってみると予想以上に手強かった。著者が情報源をぼかすために敢えてそうしているのか、全体的に持って回った文章で翻訳するのが非常に難しい。誤訳や事実誤認の防止も考え、翻訳作業と同じくらい確認作業にも手をかけるべきと判断し、チェッカーも二重三重につけ、結果的には十数名の翻訳者が関わることとなりました。

〈プロとしての意地〉

 分業で翻訳を進めながら、文体や用語の統一、事実関係を確認するための調べ物も同時に行いました。「翻訳期間が短いから」とクオリティが下がることだけは、絶対に避けなければなりません。僕も他の翻訳者たちも別の仕事を抱えていたので本当に大変でしたが、原文を読んで「これは無理」と断る人は誰一人いなかった。プロとしての意地を感じましたし、緊迫感も話題書に関われる喜びも共有でき、不思議な連帯感も生まれました。

「命がけ」の翻訳

 校了までは、ほとんど事務所に泊まり込み、合宿状態でした。校正作業が終わったのは、忘れもしないバレンタインデーの朝。担当編集者も前夜から泊まり込み、倒れるように床で一時間の仮眠を取った後に編集者がゲラを持って印刷所へ走りました。冗談でなく「命がけ」でしたね(笑)。

〈「意外性がないこと」が意外〉

 本書を訳してから、それまで断片的に伝わってきたトランプ政権についてのニュースが線で繋がって理解できるようになり、日々のニュースが俄然面白くなりました。トランプ政権の噂は散々聞いていたけれど、「まさか」という思いも少しはあったんです。でも本当に噂の通りで、本人も周りの人々も本気で当選するつもりはなかったこと、トランプも、彼を補佐するホワイトハウスの人々も、政治に関してはほぼ素人だということ。そして大統領の思いつきやその時の気分で政策が決められていることもわかりました。この「意外性がないこと」がいちばん意外なことでした(笑)。これが現実に起きていると思うと、恐ろしいことでもありますが。

〈インドでの運命的な出会い〉

 大学では政治を学びましたが、卒業後はアジアを放浪したり陶芸の修業をしたりで、その後大学院に入り文化人類学を学んでいました。翻訳に関わるきっかけは、二〇〇〇年から四年間、コルカタに留学していた時のこと。行きつけの書店である写真集の表紙の女性と目が合い、惹きつけられた。男性でも女性でもない第三の性を生きるモナ・アハメドという方を写真家ダヤニータ・シンが撮った写真文集でした。買って帰って一晩で読みました。

 モナさんを日本で紹介したいと強く思って翻訳し、DTPソフトを使って本の形にし、出版社に持ち込んだら、日本で出せることになりました。いま思うと、翻訳作業の面白さに初めて気づいたのがその時でした。 僕はもともと旅や食に関心があるので、そういうテーマの本を翻訳するのが特に好きですが、分野を限定せずに今後もなんでも挑戦してみたいです。 

(構成/皆川裕子)
 
(「STORY BOX」2018年6月号掲載)
関根光宏(せきね・みつひろ)

訳書に、『ヒルビリー・エレジー』『オリバー・ストーンが語る もうひとつのアメリカ史2』(ともに共訳)など。

◎編集者コラム◎『オシム 終わりなき闘い』木村元彦
◎編集者コラム◎『ぼくたちと駐在さんの700日戦争 27巻』ママチャリ