今月のイチオシ本【デビュー小説】大森 望

『百年泥』
石井遊佳
新潮社

 第158回芥川龍之介賞は、若竹千佐子の文藝賞受賞作『おらおらでひとりいぐも』と、石井遊佳の新潮新人賞受賞作『百年泥』の2作が受賞した。新人賞受賞作が芥川賞を獲るのは珍しくないが、2作同時は史上初だろう。『おらおらで…』は先月号の当欄でとりあげたので、今回は『百年泥』のほうを紹介する。

 語り手は、男に騙されてつくった借金を返すため、元夫の紹介で南インドのチェンナイに渡った"私"。仕事の内容は、日本との取引が多いインドのIT企業の社員たちに日本語を教えること。教師経験ゼロ、タミル語の知識ゼロ、英語力少々という状態にもかかわらず即採用された"私"は、『みんな日本語』なる教科書と前任者が残した副読本を頼りに、ぶっつけ本番で授業をはじめる。それから3か月半が経過したとき、百年に一度の大洪水がチェンナイを襲う。

 というわけで、実際に物語が始まるのは問題の洪水から3日目。ようやく水が引いて地面が顔を出した朝、"私"はひさしぶりに出勤すべく家を出る。アパートから会社までは徒歩15分だが、そのためには川を渡らなければならない。橋の上には、洪水に押し流された百年分の泥がうずたかく積もっている。泥は左右にかき寄せられているものの、中央のスペースには見物客がひしめき、7年前に失踪した子供や、数十年消息が知れなかった青年を泥の中から掘り出しては、再会を喜び合っている……。こうしたありえない出来事がマジックリアリズム的に描かれる一方、"私"の過去も次々に発掘される。極端に無口だった母との思い出とか子供時代のエピソードも楽しいが、傑作なのは日本語教室の授業風景。日本語学習ネット番組の女性アシスタントでは誰がいちばん可愛いか、カタコトの日本語で侃々諤々の大議論になるあたりは抱腹絶倒。超絶ハンサムな生徒と大阪万博記念コインとの意外な関わりをめぐる逸話もすばらしい。著者は1963年、大阪府枚方市生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程満期退学。3年前から、本書の舞台のチェンナイに夫と在住。実際に日本語教師を務めている。

(「STORY BOX」2018年3月号掲載)

(文/大森 望)
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