32歳ひとり不幸OLが幸せ引き寄せちゃう話
櫻井千姫/著

● ためし読み連載 第1回 ●


 

 プロローグ

 

 梅雨の晴れ間のある朝。まだ六月とは思えない強烈な日差しが、かぁんと音がしそうなほど強く降り注いでいた。カットソーから飛び出した腕に日焼け止めを塗るのを忘れたのに気付き、チッと舌打ちしたくなる。実際にはそんなことしないけど。そんなことをする暇もなく、急いでいるけれど。

 自宅から駅までの道は、私と同じ時刻の電車に乗る人たちが何人か、一生懸命足を動かしていた。カタカタカタ、前を歩く私より少し若いOL風の女性の、ヒールの音が耳につく。会社に行くのに、あんなハイヒールを履いていくなんて非常識。また舌打ちしたくなった。

 私の名前は吉永杏珠、都内の広告代理店に勤める三十二歳のOLだ。朝には弱く、こうして二度寝した末に余裕がなくなり、メイクもそこそこに駅までダッシュするのはいつものこと。身支度に忙しく朝ご飯を食べる暇もなかったので、お腹がすごく空いている。初夏の日差しやヒールの音だけでなく、空腹さえもイライラした。

 なんとか電車には間に合い、これで遅刻は免れるとホッとしたのも束の間。地獄のような通勤ラッシュに放り込まれ、うんざりする。隣に立つ五十歳くらいの男性は痴漢こそしてこないが、近づく顔から納豆の臭いが漂ってきて、一日の運が半分くらい削られる気がした。神戸出身の私、典型的な納豆嫌いの関西人なんやで‼︎

 広告代理店で広告を作っていると言うと、華やかな仕事だと誤解されそうだが、実際は二十一時二十二時までの残業、忙しい時期は徹夜も休日出勤も当たり前。給料は普通の仕事よりはもらっているだろうが、仕事のきつさと収入が到底釣り合わない。若い頃はとある大きな夢を持っていて、それがあまりにも実現不可能なことだと思ったから諦め、文章を書く仕事だったらやり甲斐が見出せるかなと、コピーライターを目指して広告代理店に就職したけれど、間違いだった。いい広告を作ればそれで良し、という理想論は通用しない。イメージが違うなんてクライアントに文句をつけられるのはしょっちゅうだし、頭を捻りに捻りまくってアイディアを絞り出しても、他社とのコンペに負けることだってある。

 それに、直属の上司は年中癇の虫が騒いでいるかのように怒りっぽい。

「何よ『裸で生きていこう』って。アパレルメーカーの企業広告なのに『裸で生きていこう』はないでしょ。ネットの炎上、すごいことになってるわよ!!」

 ほら、今も上司に呼び出され、お説教を受けている。マネージャーの平岡さんは、子ども三人を抱えつつバリバリ働く、キャリアウーマンを絵に描いたような女性だ。仕事がめちゃくちゃデキるのは認めるけれど、怒りっぽいし、怒り方もヒステリックだし、私はどうにもこの人が苦手でしょうがない。

「それはその、提案したら先方もいいですねー、斬新ですね、こんなの今までなかった! って盛り上がっちゃって。まさかこんなことになるなんて思わなくて……」

 平岡さんから見せつけられたタブレットの画面には、SNSの批判が嵐のように渦巻いている。ご丁寧に「#裸で生きていこう」と、ハッシュタグ付きで、批判、批判、批判のオンパレードだ。『裸で生きていったら服必要ないじゃん!』『捕まります』『裸族肯定発言www』

「言い訳はいいの言い訳は! どうするのよ、このクライアント、もう絶対うちに依頼してくれないわよ!」

「本当にすみませんでした……」

「吉永さん、今年で十年目でしょ!? コピーのセンスがちっとも磨かれてないわ。いったいこの十年、何やってたの!?」

 ひたすら頭を垂れながら、ただでさえ怒られて傷ついた心に塩を塗られた思い。

 仕事のミスを叱られるのはいい。でも今年で十年目とか、さりげなく歳バラさないでほしい。同期も後輩も聞いているオフィスでの叱責だ。もう少し言葉を考えるとか、声を小さくするとか、そういうことにはまったく頭が回らないんだろうか。怒られるほうの屈辱も考えてほしい。

 朝イチでいきなり怒鳴られて、オフィスの空気はきんと張りつめ、沈んでいた。梅雨の晴れ間のピーカン空とは正反対の、雷が鳴り響くどんより空って感じ。自分の席に戻ると、隣から手塚くんがペンギンのイラストがついたガムを差し出してくる。

「これ、よかったらどうぞ」

「あ、ありがとう」

 いくらオフィスコードのゆるい職場だからって入社一年目の夏からそれはナイだろう、っていうふんわりパーマをかけた茶色い髪が揺れ、いかにも人の好さそうな丸い二重の瞳が笑っている。この春から入社した手塚くんは美大出身のデザイナーの卵だが、時々なれなれし過ぎてイラつく。これがゆとり世代ってやつなんだろうか? 今どきの若者は、これが標準?

「平岡さん、おっかないっスよねー。僕も昨日、思いっきり怒られちゃいましたよー」

「へぇ。そうなんだ……」

 授業中に私語をするようなノリで、声をひそめて言う手塚くん。若さがみなぎるシミひとつない白い肌とか睫毛の長い目とか、営業の女子社員がキャーキャー言ってるのは知ってるが、こういう時は目下の人に慰められているという事実がさらに屈辱感をあおる。仏頂面をしてみるけど、手塚くんは私の本音にまったく気付いてない様子。

 正直、この子もちょっと苦手。

「ねぇねー、杏珠! 今夜空いてる?」

「空いてるけど。何?」

 休憩でトイレに行くと、手洗い場のところで同僚の千絵里に声をかけられた。たくさんいた同期も結婚やら転職やらでどんどん辞めてしまい、いつのまにやら千絵里と私だけが残っている状況。その千絵里も結婚したから、いつ出産を機に辞めてしまってもおかしくない。

「この前話してたイタリアンのお店行かない? 気晴らしに」

「気晴らし……ねぇ」

 さっき平岡さんに怒られたのを聞いていて、気を遣ってくれているのだとわかっていた。でも今は給料日前。旦那も証券会社でバリバリ働いている千絵里の財布には余裕があるだろうが、私には五〇〇〇円のコースを楽しむ経済的余裕はない。

「ごめん、パス。今月、ちょっとその、しんどくて」

「そか。じゃあ、また給料日後にでも誘うねー!」

 鏡に向かう千絵里がリップを直しながら言う。私は先にトイレを出る。いつのまにか、逃げるような速足になっていた。

 去年、千絵里に結婚の報告をされた時、おめでとう、よりも先にどうして私を置いて行くの、という言葉が出そうになった。共にアラサーになっても彼氏ひとりできず、いつまでも結婚できない運命を呪い、一緒に合コンや婚活パーティーに繰り出しては戦の甲斐なく、互いの不運を慰め合う仲間だったのに。私の知らないところでいつのまにか高校時代の男友だちと再会して、友だちから恋人になって、とんとん拍子に結婚なんて、ズルい。

 つまり、私は千絵里に嫉妬しているのだ。そう思うと今までみたいにまっすぐ千絵里の顔を見られなくなり、そしてそんな自分にさらに凹んでしまう。

 

 

 残業して帰ってくると、既に二十二時を過ぎていた。お金がないので夕食は買いだめしていたカップ麺。食べた後ハッとしてカロリー表示を見やると、五六八キロカロリーもあった。ダイエットにも美容にも悪過ぎる。ため息を吐いて頬を押さえると、近頃ハリを失ってきた肌がむなしい感触を伝えてきた。

 カバンの中でスマホが鳴る。こんな時間に誰だろう、まだ会社に残って仕事をしているであろう手塚くんか、それともいつも締め切りぎりぎりのライターか。そのどちらでもないことに、少しだけ安堵してスマホを耳に当てる。

「ばんわー。どうしたん?」

『いや、今飲んで帰るとこなんだけど。杏珠はもう、家?』

 大学時代から十年以上付き合ってきた男の声が、良いことなんてひとつもなかった一日に疲れ、渇いた心を潤してくれる。そしてなんだかんだいっても、自分はまだ辰巳が好きなんだな、すごく好きなんだな、と思って複雑な気分になった。

「家だよー。何? 今から来んの?」

『うん。今新宿だから、三十分くらいでつくかな』

「えー、ちょっと待ってよ。うち今何にもないよ」

『じゃあコンビニで酒とチーズかなんか買っていくわ』

 いい歳してるくせに未だにビールが苦手で、カクテルやチューハイぐらいしか飲めないこと。つまみはスルメやジャーキーより、チーズやクラッカーが好きなこと。ちゃんと覚えていてくれるのが嬉しい。

 急いで部屋を片付け、出しっぱなしの洗濯物を畳み、流しを軽く掃除してメイクを直した。すべての作業を済ませたところでタイミングよくチャイムが鳴り、ドアを開けると辰巳がよ、と小さく手を上げる。

 結婚してすっかり変わっちゃったなぁ、と酔った赤ら顔を見て思う。カタい企業に勤めているから手塚くんみたいには染められない黒い短髪が、昔より似合っている。お腹にも背中にも昔より肉がついたし、年を追うごとに着実におじさん化している。まぁそれは私もなんだけれど。

「はーぁ。やっぱ、先輩と飲むと疲れるわ。気ぃ遣ってばっかだし。杏珠といるのが、一番くつろげるよ」

 ソファなんて気の利いたものは、大学時代からずっと住んでいるこの1LDKにはないので、ベッドにふたり腰掛け、いつもの調子で互いの近況報告とか、家庭生活の愚痴とか、仕事の愚痴とか、そんなことをしゃべる。かつてきっと私は将来この人と結婚するんだろうな、だってこんなに長く男の子と付き合いが続いたことなんてなかったし、と思った時もあった。

 しかし辰巳は結局、別の女と結婚した。五年前、六歳年下の若い女と。一度だけ写真を見せてもらったけど、モデルをやってると言われたら信じてしまいそうな、ほっそりした美人だ。

「杏珠って昔から服の趣味いいよな。そういうちょっと透けてるスカート、俺好み」

「そう? これ、かなり気に入ってるの。可愛いけど子どもっぽくなくて、アラサーにはちょうどいいよね」

 アウトレットで二九八〇円で買ったことは話さなかった。いつもの辰巳とのひと時、いつものふたりの会話。でも、なんだか胸の中を不穏な感情が渦巻いている。

 大好きだけど、結婚できるわけじゃない。いくら好きでも、わたしと辰巳との間に未来はない。こんな不毛な関係、私はいつまで続けるんだろう?

 歯がゆい思いが胸の中をぐるぐるする。いけない、今は辰巳と一緒にいるのに。せっかく会えたんだから、楽しまなきゃ。ぐるぐるを深く自分の中に押し込めるため、私は残りの缶チューハイを一気に喉へ流し込んだ。酔いがふあんと頭を突き抜ける。

「おお。いい飲みっぷり」

「辰巳はー? もう飲んだのー?」

「今は缶ビールより、杏珠とチューしたい」

「あははは、アホー」

 じゃれ合いながらキスをする私たちは、ハタから見ればどこにでもいる、普通の、幸せなバカップルに見えるのかもしれない。でも世間はこの関係を、不倫と呼ぶ。

 

 

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