国会議員基礎テスト
第三回

 橋本繁は、北陸の出身。父親は地元の老舗企業のサラリーマンという、ごく普通の家柄だった。子どものころは、神童と話題になったほど勉強ができた。周囲から、東大に行けると騒がれ、本人もその気でいた。だから、毎日サボることなく勉学に勤しんだ。

 ところが高二になったころから、成績は伸び悩み、大手予備校の模試では、東大合格はD判定という結果が出た。

 しかたなく、東大はあきらめ、地元国立大学の法学部を受験し、合格。弟二人に妹がいたため、一浪して東大を目指すのは難しかった。

 大学生になっても同級生がバイトやサークル活動に精を出しているのを尻目に、勉強に集中した。

 高二、高三と一番重要な時期に、成績が下落したことが、くやしかった。フルスロットルでアクセルを踏み続ければ、やがてエンジンが悲鳴をあげるのは、車も人間も同じだが、なぜそれがよりによってこんな時期に起きたのか、何度も唇を噛みしめた。

 橋本の出身高校は、毎年数十名もの生徒を東大、京大に送り込む、有名な進学校である。高一のころは自分より成績の悪かった人間が、次々に東大に合格するのを目の当たりにし、いつか彼らに追いつき、追い越してやろうというのが、若き日の橋本の悲願となった。

 橋本が国家公務員I種試験(現在の国家公務員総合職試験)に挑んだのは、ごく自然の成り行きだった。

 猛勉強した甲斐があり、橋本は見事合格を果たした。両親や兄弟、親戚一同は飛び上がらんばかりに喜んだ。一族から官僚が出るなど、初めてのことだった。

 これで東大に行った同級生たちを見返すことができる。橋本は、意気揚々と官庁訪問に出かけた。

 ところが、物事はそれほど単純ではなかった。希望していた官庁からは立て続けに不採用通知を受け取り、あまり興味のなかった小さな官庁に、やっとの思いで入省することができた。

 成績は決して悪くはなかったのに、なぜそんな結果になったのか。おそらく橋本が地味な地方大学出身者だったからだろう。巷で真しやかに語られていた、東大じゃないと通らないとか、同じ東大でも法学部現役合格者以外は二軍扱いというのは、あながち嘘ではなかった。

 公務員試験は公平だったが、エリート主義に凝り固まった官庁の採用は公平とはいい難かったのだ。

 入省してからも、学閥の壁が立ちふさがった。橋本が配属された課にもその上の局にも、橋本と同じ大学出身者はいなかった。それゆえ橋本は孤立し、出世レースに参加すらさせてもらえなかった。

 数々の苦渋を味わい、十年が経過したころ、仕事はまるでできないくせに、態度だけはやたら横柄な東大出の課長の下に配属された。

 まるで意味がわからない仕事を振られたため、理由を尋ねようと課長に詰め寄ったところ「いいから、つべこべいわず、いわれたことだけやれ」と一蹴された。「わからないのか? それをしなけりゃ、お前の仕事がまったくなくなるんだぞ」

 橋本は不要な人材として、たらい回しにされていたのだった。

 橋本の地頭は悪くない。ただ、高二と高三の二年間、ちょっとした機能不全に陥っていただけだ。

 しかし、この重要な時期を棒に振ってしまったら、後からいくら頑張ろうが、取り返しがつかなくなるのが日本のシステムである。

 もうここら辺が限界かもしれないと、橋本は密かに第二のキャリアを模索し始めた。

 とはいえ、今さら民間に行くのにはためらいがあった。企業のほうも、天下りならともかく、落ちこぼれの官僚など、どう扱っていいやら戸惑うことだろう。

 そんな折、声をかけてくれたのが、自由民権党の衆議院議員、藤田武雄だった。

 当選十三回のベテラン。自治大臣、国家公安委員長、自由民権党幹事長などの要職を歴任した後、党を飛び出し、新党を立ち上げた。しかしすぐに解党し、別グループとともに、新たな党を設立。その後も離合集散を繰り返し、前回の選挙では、古巣の自由民権党から立候補して当選した「昭和最後の妖怪」と異名を取る人物である。

 そんな藤田が、なぜさえない官僚の橋本に声をかけてくれたのかといえば、同郷で大学も同じだったからだ。

「橋本くん。政策秘書をやってみないか」

 政策秘書という職種は知っていたが、具体的に何をするのか、今一つイメージがつかめなかった。

「黒部くんを知っているだろう。黒部優吾くん。栃木X区の。彼が今政策秘書を探しておるんだよ。きみなんか、適任だと思うんだけどねえ」

 黒部代議士については、特段悪いイメージは抱いていなかった。これといって特徴のない、世襲議員。おそらく上司としては与しやすい部類に属するだろう。それに黒部は藤田の子分のようなものだ。藤田の肝いりで秘書を務める自分を、邪見に扱うことはないだろう。

 こうして橋本は官庁を辞め、黒部優吾の政策秘書となった。

 

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