一木けいさん『1ミリの後悔もない、はずがない』

今回の小説は「苦しいところにいる子たちを見つけてあげて」という、私の願いも、こめています。

「私が50分の円盤や90分の舞台で描きたかった全てが入っている。」と、アーティスト・椎名林檎さんが絶賛する、一木けいさんの『1ミリの後悔もない、はずがない』が話題となっています。さまざまな性愛に惑わされる女性の機微を、デビュー作とは思えない成熟した筆致で描き、すでに多くの女性読者の支持を集めています。バンコク在住の一木さんが一時帰国された機会に、本作を書き始めた動機など、貴重なお話を聞くことができました。

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──『1ミリの後悔もない、はずがない』を読みました。面白かったです。主に女性読者から反響の高い作品ですが、男性の私も読んでいて、心の琴線に触れる部分が、たくさんありました。

一木 本当ですか。男性の方にどう読んでいただけるのか不安だったので、嬉しいです。

──本作は、夫と娘と暮らす女性・由井を中心に、彼女や友人たちの人生模様を描いた連作集です。もともと1話目の『西国疾走少女』から、1冊の本にまとめるつもりで書かれていたのですか?

一木 いえ。初めは、後先を考えずに書き出しました。デビューして何本か書いた頃、本にまとめようという話になりました。新しい長編を書くのか、短編をアンサンブルで書くか、担当さんと相談しているうちに、由井を軸にした連作ができあがっていったという印象です。

──『西国疾走少女』は母子家庭だった由井の、中学時代を舞台にした短編です。こちらがデビュー作となりますが、構想は以前からお持ちだったのですか?

一木 構想は、特にありません。イカをさばく描写を最初に持っていったら、自然に物語が進んでいきました。「イカの胴体に手を突っ込んで軟骨をひっぱり出した」「ずるりと引きずり出したものには、目玉がついていた」「丸々と太った魚だった」という描写は、バンコクでイカをさばいたとき、実際に体験したことです。
私自身は由井のように、そこから過去の記憶を思い出したりはしませんでしたが、『西国疾走少女』を書き出す際、どういう設定でいけば伝わるかなと考えると、この描写から始めるのがしっくりきました。

──冒頭から、由井の細かい観察眼が光ります。男子の喉仏を見て「妙にでっぱって色っぽかった」「歌うとき、笑うとき、つばを飲み込むとき、そのでっぱりは、コリ、コリと上下に動いた」というくだりや「林檎味の大玉のアメをくれた。シュワシュワするそれを舐めながら」など、イメージを喚起させる描写が秀逸です。

一木 由井はすごく冷静に、周りを観察していますね。自分の感情すらも、観察の対象にしているのではないかと思います。

──観察という行為自体に、執着しているようでもありますね。一方で人間関係や、身の回りの出来事などには、興味がないようにも見えます。違う性質を併せ持つ、10代女子のアンバランスな心性が、リアルに再現されています。

一木 特に意識はしていませんでしたが、結果的にそうなっているかもしれませんね。由井は、友だちにも家族にもおもねっていない。本当は強く求めているものがあるんだけど、手に入らないことを理解して、その運命を受け入れています。でも大人になったら、自分の意志で何かを変えていこうという決心は強い。彼女にとって中学時代は、家庭環境や教師との巡り合わせなど、ネガティブな運命を受け入れ、「しょうがない」と諦めている時期でしょう。

──そんななか由井は、同級生の桐原に恋をします。彼の人物像は、一木さんの初恋と関係しているのですか?

一木 いちおう人物像は、あります。私のフェチシズムが詰まった存在です。先ほど指摘された喉仏のくだりは桐原くんのもの。彼のシーンは、私の地の部分で書いているので、気持ち的に盛り上がりました。実は由井のお父さんも喉仏が美しい人だったり、「由井のなかで何かつながっているんだろうな」と、書きながら発見していくような感じがありました。

大阪の少年少女殺害遺棄事件からイメージを想起

──由井は、いわゆる貧困家庭で10代を過ごしていました。閉塞的で救いのなさそうな環境が、生々しく表現されていました。

一木 自分も貧しい家庭に育ったので、そのときの体験は加味されているでしょう。いちばん想起したのは、社会的なニュースになった寝屋川事件(2015年8月、大阪府・寝屋川の中学1年生の少年と少女が深夜に待ち合わせた後、何者かに殺害された事件。証拠映像などから契約社員の男が犯人として逮捕される。しかし男は黙秘を続け、少年たちの足取りや犯行の動機など詳細は不明のまま)です。被害者の男の子と女の子の写真をテレビで見たとき、彼らのように幼く、どこでもいいから外に出ていきたかった私の10代の始めの頃を思い出しました。彼らの得体の知れない衝動に、誰かが気づいてあげなくちゃいけなかったとか、そうしたら悲惨な最期は防げたのに……など、いろいろな気持ちが頭を巡りました。
事件の後に「中学生のとき、夜中に誰かと出かけたことがある?」と、周りの人によく聞いていました。そんななか由井と桐原が連れだって夜に出ていくエピソードが、私のなかで、できていったのです。

──得体の知れない感触は、今回の小説によく表れています。恋愛小説の枠組みではありますが、全体を通して読むと、由井をとりまく濃密な家族の物語という側面も浮かんできます。

一木 私が小説を書くとしたら、どのような形であっても、きっと家族の話はからんでくるでしょう。ふだん魅力的な方にお会いすると、「どんなご両親の元で育ってこられたのか」とか「兄弟姉妹やご親戚とはどのような関係を築いていらっしゃるのかな」などと、想像を膨らませてしまいます。このさき恋愛小説でも、登場人物ひとりひとりの家族の姿を、大事に描いていきたいです。

人生ちょっとはいいことあるかもよ、と言いたい

──女癖の悪い先輩・高山を描いた『ドライブスルーに行きたい』、由井と出会う前後の夫の心象が明かされる『潮時』、高山との不倫関係から離れられない女性の話『穴底の部屋』など、官能的で密度の濃い短編が続きます。どの話も明るいとはいえない展開で、切ない結末を迎えます。しかし何かしら希望のような、ポジティブな余韻を残しています。

一木 そう感じていただけたら、嬉しいです。ただ悲惨なだけの終わりにしようと思えば、いくらでもできますが、それはしたくありませんでした。やっぱり、苦しい境遇にいる子たちが読んだとき、「いま辛くても、この先にちょっとは、いいことあるかもよ」というメッセージは、ちゃんと示しておきたい。エールというか、生きていく希望を見いだせるものを書きたいと考えています。「ちょっとは、いいことあるかもよ」、それは自分が若いときに言ってほしかった言葉でもあります。今回の小説は「苦しいところにいる子たちを見つけてあげて」という、私の願いも、こめています。

──最後に収録の『千波万波』は、特に希望を提示している物語です。

一木 そうですね。私の場合は、由井たち家族の味方になってくれる、安伊子さんみたいないい大人が、周りにいませんでした。いてくれたらよかったなと、いまでも思います。
基本的にきれいごとを言うような大人は、悩んでいる子の真剣な問題に身体を張って対処してくれません。若い読者には、口先だけ上手い大人ばかりって思われるかもしれないけど、それでもやっぱり「生きていくことには価値がある」と、伝えたいと思っています。

──由井が完璧なハッピーエンドを迎える結末も考えられたかもしれませんが、そういう形にはおさまっておらず、ラストには胸を締めつけられます。

一木 完璧なハッピーエンドとは?

──ひとつは由井の両親が復縁して貧困家庭から抜け出し、家族円満に戻る、などです。

一木 それは、ないでしょう。人生は、そんな簡単じゃないですものね。逆に希望ではないと思うし、嘘になります。由井にとって何か違う形で光というか、希望を見いだせるものは何だろうと考えた結果、この結末になりました。

書きすぎないで読者に委ねたい

──『千波万波』では、桐原が由井宛てに書いて、ずっと読まれなかった手紙が登場します。読まずに大人になったことを含め、由井はそれまでの自身の人生を後悔しているでしょうか?

一木 おそらく後悔はしていないと思います。だけど本当のところは、わかりません。由井の真意は、読んでくださった方に委ねます。

──手紙を開けた後の由井がどんな気持ちになって、どう行動を取るのか、本編では描かれていません。想像が広がります。

一木 女性読者の方は、あの手紙については胸がキュンとするとか、「由井に嫉妬する」などと言われますが、男性はまるで違う解釈をされるかもしれないですね。ちなみに桐原くんの手紙は、彼が鉛筆で文章を下書きして、その上にボールペンで書き、鉛筆の下書きを消した跡が残っている……という設定もありました。でも結局、書いていません。私はあえて書かない場面が、けっこう多いです。
あまり語りすぎるのは、ださいというか、読者に委ねていない気がしています。編集の方に「わかりづらいから書いて」と言われて、しょうがなく書き足したりするんですけど、書きすぎで、逆に読者に伝えたいものが、削り落とされたように感じることもあります。ちょうどいい具合を、いまは探っているところです。
基本的には、読者に委ねたい。書くべきことを最低限に留めて、うまく伝えられる小説を、理想にしています。

──『1ミリの後悔もない、はずがない』は書くことが目的ではなく、伝えることが目的なのだという、一木さんの小説家としての姿勢がきちんと伝わってきました。

一木 嬉しい。良かったです。

自身をカウンセリングするように書いていた

──今さらですが、小さい頃から小説家を目指していらっしゃったのですか?

一木 小学生の頃は、マンガを描いていました。そのときから作品を誰かに読んでもらって、感想を聞きたいと思っていました。小説は大学に入ってから書いてみたくなったのですが、なかなか書けませんでした。しばらくは読み手のまま、大量の本を読んでいました。
本格的に書き出したのは、ここ数年です。身の回りの大事な人が、たて続けに亡くなりました。小説を書くことを勧めてくださった先生、次は父、そして友だち4人を失いました。そのとき「私は、なんで生きているんだろう?」という思考の沼にはまってしまい、自分をカウンセリングするように、小説を書き始めました。何のために生きているのか? 小説を書きながら探しているところです。

──一木さんの小説は面白く読める一方で、かすかに死の匂いが漂っています。『西国疾走少女』も始まりからして、死んだイカの描写です。

一木 ああ。言われてみれば、そうですね。

──死の無常と、命の希望、背反するものが背中合わせに一緒になっている、世の理を小説で説かれていると思います。

一木 そこまで読みこんでもらえたら、ありがたいです。次回作は長編になるか連作短編になるのか、まだ決まっていません。でもテーマは、いくつか準備しています。私なりの家族の物語を、これからも書いていきます。

(構成/浅野智哉)
〈「きらら」2018年5月号掲載〉

一木けい(いちき・けい)
1979年福岡県生まれ。東京都立大学卒。2016年『西国疾走少女』で第15回「女による女のためのR‐18文学賞」読者賞を受賞。選考委員の辻村深月氏、三浦しをん氏から高い評価を受ける。現在、バンコク在住。

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