インタビュー 長嶋 有さん 『もう生まれたくない』

第108回
長嶋 有さん
もう生まれたくない
知る必要のない死まで知るようになった社会だから、 この小説ができたんです。
長嶋 有さん

 震災直後の人々の思考の流れをシームレスにつづった『問いのない答え』、大切な人を喪ってしまうかもしれない思いを遠景に描く『愛のようだ』、アパート部屋の歴代の住人たちを登場させた『三の隣は五号室』。昨今の長嶋有さんの作品は“人々”や“生と死”、そして“時間”を深くとらえている。新作『もう生まれたくない』もそんな一作だ。

 

日常の中で触れる訃報の数々

 

  長嶋有さんの『もう生まれたくない』は大学に集まる職員や学生たちが、同じ訃報を目にするという共通点で連なっていく群像劇だ。きっかけのひとつは、別名義でミニコミ誌に連載している、「死んでから読め」というコラムだ。

 

 「訃報に対してすぐ“R.I.P.”などと書いて安直に哀悼の意を表明する風潮へのカウンター的なことを書いてくれ、と言われて、僕も漠然とそう思っていたから始めた連載です。それで、みんなが全然R.I.P.しない人の訃報について書くことにして、第1回は元野球選手のアニマル・レスリーにしたんです。第2回で書きたかったのに書きそびれたのが声優の内海賢二でした。彼は声優としてはすごく有名だけど、深夜の「ディノス」の通販番組の声のナレーターとして追悼する人は一人もいない。でも実はあの番組は、則巻千兵衛役の時の軽やかな感じと、悪役の時の強面な感じの声の両方を一度に楽しめる番組だったんです」

 

 その後、文芸誌『群像』に小説を寄稿する際、その書き出しを、様々な人が内海賢二の訃報について考える場面で始めてみた。

 

 「小説にするなら、いろんな人がそのことについて考える、思弁のグラデーションを書こうと思って」

 

 深夜、通販番組のテレビで内海賢二の声を聞く人々。引っ越しの梱包をする男もいれば、腹筋運動をしている女もいる──しかしそれだけでは話が膨らまなかった。

 

 「結局、引っ越しの梱包も腹筋運動も延々とやっているわけではないので。最初は100枚の小説を3本書くはずが、あまりに書けないので締切を見送って、結局300枚を一挙掲載しなければいけなくなり、講談社にカンヅメすることになって。そうしたらそこのフロアの長い廊下の先に医務室があったんです。そこから、舞台を大学にすることを思いつきました。死んだ人は動かないので残された人は思うことしかできないから、それだけだと動きのない小説になりますが、大学は広いから移動するし、歩きながら考えたりもする。思弁が持つし、景色も変わるから描写しやすい。読者の心の中に典型的な大学のイメージはあるから、思い浮かべてもらえるのも都合がよかった」

 

 構成も、3つの時期から成り、そこにさまざまな実際の訃報が盛り込まれていく作りに。

 

 「僕の小説には固有名詞がよく出てくると指摘されますが、実際の日常生活が固有名詞だらけだから自然とそうなっているだけ。それが僕の特徴というならば、実際の有名人の訃報を連発する書き方は僕の独壇場だなと思って(笑)」

 

 さまざまな訃報に触れて心にさざなみが立つ人々を描く本作。主要人物は大学の医務室に勤務する春菜、ゲームオタクのシングルマザーの美里、清掃員の神子、学生の小野遊里奈に安堂素成夫、教員の布田、美里の元夫の名村たち。発想のきっかけだった内海氏の訃報は2013年だが、本作は2011年の7月から始まる。長嶋さんには、震災後にTwitter上の言葉遊びで繋がっていく人々が登場する群像劇『問いのない答え』という小説もあるが、

 

 「『問いのない答え』では震災直後からの大勢の思弁を書いたから、同じことはもう書けない。でも、まだ節電などはしつつ平常営業になったころから書き始めれば、あれとは異なるけど地続きの話を書けるかなと。元X JAPANのTAIJIの訃報の日時がその頃だったのもちょうどよくて(笑)」

 

 以前長嶋さんがパソコンで描いた漫画の『フキンシンちゃん』の主人公、フキ子が『問いのない答え』にも本作にも登場するのは、そんな意味合いもあってのこと。

 

個性を剥ぎ取った先にある微差

 

 登場人物に関しては、実は春菜たち大人の3人に関しては、最初は3人に分けることもなく全員※印で書いていたのだという。

 

 「女性たちはあえて個性なく、メリハリをつけずに書きたかったけれど、男はね。素直な素成夫くんみたいな人ばかり揃えてもしょうがないと。それで、布田のような女にだらしのない男を書いたら、これが読んだ女性たちからウケが悪くて悪くて(笑)。僕はそんなに悪い人間を書いたつもりはないし、こうした心ない部分は自分にもあると思っていたんですが……。ただ、こういう人を配置したのは、不謹慎に訃報ばかりを並べてそれに触れる人たちを書く時、心なかったりいい人じゃなかったりする人を出さないと、群像劇としてバランスがおかしいから。それで布田の他にも、屈託のある名村さんのような人も書いたんです」

 

 一方で女性たちを無個性にしようとしたのは、

 

 「昔から“個性豊か”ということを信じていないから。80年代にタモリがネアカとネクラと言い出し、みんながボケとツッコミをするようになり、キャラの時代といわれ、個性やキャラをみんなすごく意識し重要視する時代になっていると思いますが、だからこそ小説は個性重視とは違う方向に歩いていくべきだ、と思ってる。みんなが思っているキャラというものを剥いだ時の微差は取り換え可能なのかどうか。その微差というものこそ書き留める甲斐があるんじゃないか。だから群像劇なのに、あえて個性豊かに書き分けないんです」

 

 個性については以前から考えていたという。

 

 「昔、飛行機内の小説を書こうと思っていたんです。機内では、300人の乗客の個性が消える。みんなのモノローグを書こうとしたら、年齢や職業に関係なく、コーヒーにしようか紅茶にしようかといった内容にしかならない。でも、Twitter時代が始まって、たとえば中央線が止まったら職業や年齢にかかわらず大勢が“中央線が止まった”とつぶやいているのを見て、その小説は諦めたんです。Twitterで見えるようになった人間の微差というものについて、それではない書き方でないと、群像劇を描く意味がない」

 

 タイトルは執筆前から頭にあった。

 

 「結果的に、もう生まれたくないから今を精一杯生きていくんだという、理に落ちるような説明がつくのかなと。でも、このタイトルがあったから、素直な素成夫くんみたいな人が主役級の活躍をしてワーイ、みたいな小説にならなかったのかもしれません」

 

現場の人はただ悲しいだけ

 

 さまざまな訃報に囲まれながら、彼らの日常は変化していく。なかには、実際に身近な人を喪う人もいれば、命を落とす人も。

 

 「10年前の自分は小説を書く時に、安直に人を死なせて大きいドラマを拵えたりするまい、と思っていたんです。でもその後、自分が歳をとって衰えも感じるようになり、周りの人が死ぬことも多くなって。話を盛り上げるために死を書いたりするまいと思っていた若い頃の自分は死が遠かった。死が近くなった今は、それを書くことが自分なりに誠実だともいえる。それで好きな人が癌だという『愛のようだ』のような派手な死の小説も書いたわけですが。これは、巷間にあるゴシップ的な訃報を書くなかで、実際に身近な人に死なれた地味な死も見せておこうと思って」

 

 だが、作中人物は、身近な人を亡くしても声高に悲しみを訴えることはしない。

 

 「身近な人を亡くした人たちの立ち直り方を見ていると、何か大きなきっかけがあるわけではない。誰かに死なれると自動的に悲しみ、自動的に立ち直る気がする。悲しみは消えないけれど折り合いはつくんですよね。経年劣化の逆で、“経年立ち直り”みたいなものがある。小説の中でも夫に死なれた女性が喪主の挨拶で急に亡くなったことを本人が一番驚いていると思う、ということだけを言いますが、あれは本当に喪主の挨拶でそう言った方がいたんです。そこで思弁が終わっている。それが自分の今の気持ち全部、というのが本当のところなんだろうなと思いました。実際の現場の人間にとって、死というものはただただ悲しいもの。でもそれが巷間の訃報というものになると、ヘンな思弁になるということが分かるようにしました」

 

 遠い存在の訃報に触れた時、人の思考は滑らかになる。実際、すぐさまSNSなどで哀悼の意を表明する人も多く見かける。そもそも長嶋さんはそこに違和感をおぼえてコラム連載を始めたわけだ。

 

 「SNS時代になって、周囲に訃報が増えた。それは死んだ人が増えたのではなく、それまでだったら目に留まらなかった訃報も知るようになったから。で、やたらみんな言葉で弔うようになった。でも僕は、オルタナティブというと格好いいけれど、みんなが言わないことを活字にしたいんです。知る必要のない死まで知るようになった社会だから、この小説ができたと言えますね。で、訃報とゴシップは結びついていて、悼むことなのに不謹慎で下世話なものに隣接している。ゴシップは文学っぽくないものの代表だけど、人間の心をすごく支配していますよね。そのことを正しく肯定するというか、正しく指をさしていたいんです」

 

 不謹慎、とは長嶋さんの口からよく発せられる言葉だが、しかしその作品は決して下品にはならない、いつも。

 

 「自分自身、品がいいということはないです。それこそ自分には心ない部分もあるし、下世話という意味では今でも麻薬使用疑惑の大物歌手のブログをクリックしたりしているし、某アナウンサーを見るたびに、昔不祥事を起こした人だなーと思うし(笑)。忘れてあげないぞ、みたいな気持ちはありますね。逮捕歴なりなんなり、心の片隅で憶えてしまったこと、保存してしまったことに対して、その記憶という有限な領域を使っちゃったことの責任はとってくれって思う」

 

 それは決して、軽蔑や嘲りとは違う。

 

 「ゴシップ好きの全員が残酷で意地悪なわけじゃない。興味を持って見てしまうことも含めて、人が言わないことを素描しておくというのは、優しさなんでしょうね。優しくないなら、なんのために活字にする行為だよと思う。保坂和志さんも言っていたけれど、全部の文学は肯定するための行い。小説を書くっていうのは、そういうことでしょう」

 

 その優しさは、具体的に小説の最後の場面にも感じられる。

 

 「最後の場面で女の人が死者に対して思うのは、すごくシンプルなフレーズだけど、小説という迂遠な形式で、この言葉まで読者を運びたかったんです。誰も死者に言わなかった言葉を書かないと甲斐がない。必然的にそうなるんです」

 

 発信されない声を発信する小説。“人々”を描きながらも、一人一人の生の温度を感じさせてくれる作品だ。

 

 「どうしても便利だから“死”って一文字で言っちゃうけれど、“死”というより“死ぬ”ってことを書いている感じがする。“死”というのは概念だけれど、固有の1個1個の訃報に対して、あの人が死んでどうだったかを考える話ですから。それぞれの思い入れの薄さなんかを書きましたから。まあ、300枚書かなきゃいけないという要請によって苦し紛れで書いたものでもあるけど(笑)、もしかすると画期的なことができたのかなと思っています」

 

長嶋 有(ながしま・ゆう)

1972年生まれ。2001年「サイドカーに犬」で文學界新人賞を受賞しデビュー。02年「猛スピードで母は」で芥川賞、07年『夕子ちゃんの近道』で第一回大江健三郎賞、16年『三の隣は五号室』で谷崎潤一郎賞を受賞。他の著書に、『佐渡の三人』『電化文学列伝』『フキンシンちゃん』『愛のようだ』『観なかった映画』など多数。

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